ハイデガー読解201701 オイディプス時間=仮象とは別の確実性が語る=触発すること

私たちは偽物の確実性の中で苦しんでいる。そうした仮象の形而上学を払拭させること。ハイデガーはそれをカント書の一元論から語り、デリダはそうして語られたハイデガーの形而上学批判期を、ハイデガーが仮象としたオイディプス時間から逆向して読解する。その不確実性について。 科学的認識=確実性が無意識に封じ込めるもの。そうした仮象性を暴露するハイデガーは、二元論=潜勢から語らない。コペルニクス的転回とは科学的認識のことではなく、それがオイディプス時間へと蹴落としたもの、一元論から、じんわりと触発的に、語りを出発させることだ。 続きを読む
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※下記のまとめは個人的な読書ノートやアイデアの倉庫であり、今回はとくに、ハイデガーが、科学と無意識の「形而上学の仮象性」から「全体としての形而上学」へと歩む、その原因となったカント書の「感性的理性」GA3-173を軸足にしたツイートを、無造作に時系列順に堆積させたものです。

話題としては、デカルトの確実性を神という、あるフォロワーさん http://bit.ly/2jBZmd3 を念頭に、科学的確実性は、不確かな世界観=イデオロギーを生むが、科学はそうした仮象を基礎(前提)にしていない、というハイデガーの分析の理路について、ポスト存在と時間期、カント書以後を読解しながらの徒然です。


ポスト『存在と時間』でも、実はカント書までは、形而上学は仮象性として両義的に捉えられているが~(つまり、この頃までは、形而上学は、全体における存在者にとっての異物=仮象という扱い)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

ハイデガーのカント批判は、カントを形而上学のように見做す新カント派が、コペルニクス的転回を誤解して思想的転向に頽落している、というものといえるかもしれない。ハイデガーで転回できないと新カント派どころか、マルキストのようになるというのも面白い。そのあたりはまた。@BeTakada

2016-10-03 05:01:00

以下の話、つまりデリダが逆向きに読解したハイデガーの形而上学批判期、いわゆる動物論では、形而上学は仮象ではない、とされている。

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

気分の分析論(メタ存在論)は、生物論(実存論)を内的必然性とするか、と定式化される問題というだけです、それを基礎としなければ、そもそもカッシーラーの言う文化哲学や比較文学も可能にならない。要は分析は気分を分析することしかできないのです。@BeTakada

2017-01-16 18:59:37
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

動物は死の意識から自由な存在者だが、石はそもそも生まれてきてないからもっと自由。死という運命を待つだけの存在者より、これから生まれる存在者になること。もっとサイバーになりなさい。さすればそなたも救済されるであろう。twitter.com/sunamajiri/sta… @TKDOMO

2017-01-16 19:22:42
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

ハイデガーの転回というのは、人間には、先駆的決意性=死しかないが、動物に死という意識がない以上に、サイバーな石には、不死があると捉えた点にあるのだ。人間は自我ではなく仮我なのだが、自我だと思いこんで執着している。しかし、サイバー=石には、仮我があるのだ。@inja650rr

2017-01-13 23:28:05

Taka kichi @BeTakada

ユキュスクル、カッシーラ、ホフマイヤー、ダヴォス討論、shoyaku.repo.nii.ac.jp/?action=reposi… メモ

2017-01-15 22:25:43
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

よいね。実存論=生物論からなぜ転回したのかね。@BeTakada ユキュスクル、カッシーラ、ホフマイヤー、ダヴォス討論、shoyaku.repo.nii.ac.jp/?action=reposi…

2017-01-16 08:24:51
Taka kichi @BeTakada

@sunamajiri そう思います。如何なる現象が各々の気分として抽出されるか、それが直接構想力の契機となっていると捉えないと、なにも観えて来ないだろうとも思います。分かり易い論文でした。

2017-01-16 20:53:49
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

鈴木英明『冷戦期アメリカにおける「不可知なもの」-ダヴォス討論と~』 bit.ly/2jgQbNp の最後にあるように、戦後アメリカは、比較文学を、国歌防衛教育予算で育成したからね。それがハイデガーのカント解釈のいう構想力だ、と喝破してるね。@BeTakada pic.twitter.com/pkpUydjft4

2017-01-17 00:37:00
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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

(鈴木英明によれば)ハイデガーのカント解釈は、個別(感性)と一般(悟性)を統御する主体性(リベラリズム)である、非理性的な想像力(構想力)が、不可知なものであるため、カントが不安にかられた、というハイデガーの気分論だが、(続く)@BeTakada pic.twitter.com/mr22N768dp

2017-01-17 00:51:07
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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

(続き)こうした、カントを不安に陥れた不可知なものとしての想像力は、戦後冷戦期のアメリカが国家防衛教育法で育成した比較文学、つまりピュアリベラリズム、あるいはサラダボウルとかメルティング・ポットのことだ、という話だ。私はアメリカの比較文学学の専門家だからね。@BeTakada

2017-01-17 00:51:33
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

つまり、比較文学だけが、個別と一般、感性と悟性を統御する、主体的な能力=ピュアリベラリズムであり、これが不可知なものとカントが呼んだものなのだ。それ以外のリベラリズムがすべて欺瞞的に聴こえるのもそれゆえで、これが戦後アメリカの国家防衛教育法の理念にもなっている。@BeTakada

2017-01-17 00:55:30
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

これは、民俗学や神話学、あるいは文化人類学がアプリオリなのか、比較文学(超越論的構想力)がアプリオリなのか、という議論だが、日本では柄谷のトラクリが、旅をしないカントを、デカルトのように旅をする文化人類学者にしてしまう。これを批判するのがハイデガーというわけだ。@BeTakada

2017-01-17 01:06:31
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

自然を文化と曲解し文化が圧殺される。これは日本では1995年のオウム事件以後、それまで文化と許容された不可知を許容しないエヴァ世代になった、とよく語られる。自然現象しか許容しない消極性だが、それも関連があるだろう。twitter.com/sunamajiri/sta… @BeTakada

2017-01-17 01:19:23
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

あの1995年のムードというのを一言で言うなら、それまで文化として許せていたようなことが、どうしても自然現象でなければ許せなくなった、そういう分水嶺だった気がする。麻原彰晃の空中浮遊は文化だったのに、自然現象としてありえないとか。それとネット黎明期はシンクロしている。

2017-01-12 06:04:19
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

奇しくも今年のセンター試験国語問題が、まさに自然の実在に神を見てしまう、国語力の低下を踏まえたテストだったのは偶然ではないだろう。たとえば、それを為政者のせいだと答えると、失点する設問まであった。twitter.com/sunamajiri/sta… @BeTakada

2017-01-17 01:27:13
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

そういえば、一昨日のセンター試験国語がまさにそれ。何でも自然現象だと思い込む日本人の国語力をテストしようとしていた。もしすべてが自然現象なら大学受験なんて無用の長物だからね。twitter.com/sunamajiri/sta… @tubax_crow

2017-01-16 01:30:18
Taka kichi @BeTakada

@sunamajiri GA65では、その無底の深淵に住まう不可知な存在者の出奔を事細かに語っていると思います。その論文を読む限り、やはりカントと形而上学の問題は回避不可能の様ですね ^^; お休みなさい。

2017-01-17 03:21:37
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

鈴木英明のカント書論 bit.ly/2jgQbNp は、カントを不可知=想像力からの退却とする新カント派~カッシーラーを構造主義、カントを不可知=想像力とするハイデガーの新カント派批判を、ポスト構造主義に擬えていて、忌憚ないですね。@BeTakada

2017-01-17 04:12:28
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

ここで手加減すると単なるマネーだけの時代になってしまう。カントにはそれ以上に、個別(感性)と一般(悟性)を統御する想像力があったが、その深淵にカントが怖気づいてしまった。それでマネーだけになってしまう。ハイデガーのいう最後の神とは、この想像力のことでしょうかね。@BeTakada

2017-01-17 04:17:20
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

文化は自然現象だという認識論は、想像力を否定する物神論でしょう。新カント派は、カントを実在論と真理前提して、対象は認識に準拠する、という恣意性を認識論的転回とし、カッシーラーは文化を語るが、ハイデガーはそこからの転回を形式問題だというんでしょうね。@BeTakada pic.twitter.com/rgCQbwb4mC

2017-01-17 04:37:23
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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

要するに物神とかマネーというフェティシズムというのは、カントの感性(個別)と悟性(一般)を能産する超越論的想像力の、代替わりとしてあるものにすぎない。しかし、転回を認識論=恣意性だとしてしまうと、単なる実在論に陥り、物神が跋扈してしまう。@BeTakada

2017-01-17 04:42:29
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

そのためにまず生物論(実存論)が基礎存在論として立論され、それが内的必然性となって、カントの不安を言い当てる必要があった。それが不安によるメタ存在論の創始です。想像力こそが、個別と一般という、感性と悟性を綜合する唯一の方法だ、と言っているように聴こえました。@BeTakada

2017-01-17 04:48:01
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

丸山論文の「メタ存在論は基礎存在論の内的必然性か」という定式化にあるように、実存論はカントの被制作性暴露の代わりに、先駆的決意性を抱かせた。それが内的必然性となって、カントの気分分析であるメタ存在論が可能になったわけです。その結果、最後の神への言及が始まる。@BeTakada

2017-01-17 05:01:21
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