演劇における他者-無意識、イメージ
- kenken_1987
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諸演出家が、俳優と観客が一人いれば演劇が成立するといった様な旨の事を言っているが、それは勿論「上演」を念頭に置いているからであって、「理念としての演劇」はむしろ俳優だけがいれば良いのではないか、など。
2011-07-27 05:21:11まぁつまり、視界に誰も入っていなくても他者への志向性は失わないだろう、この場合、行為は全て演技になるのではないだろうか、など。
2011-07-27 05:30:50ここで問題になるのは日常のルーティンの様、無意識下で行われる行為をどう扱うかということ。少し前であればこの様な行為は志向性を持たず行為に満たないだろうと考えていたのだけど、今は単純にそうとも言い切れんすよなぁと思っている
2011-07-27 05:32:1213時間後
【迷惑な返信】@kenken_sebatex なるほど。少し考えが深まった。「観客」についてだけど、想像上の観客だけでは、やっぱり俳優の気持ちは盛り上がらないんじゃないか?とも思う。もっとフィジカルな問題というのもある気がします。(ツイッター、短い)
2011-07-27 18:55:12【迷惑な返信】@kenken_sebatex それで、「無意識」ということの含む領域について、少し考えた。一応、ルーティンの行為は無意識に入っているけれど、それは想像上の他者というものを必要としているのか否か、微妙かも、とか思った。
2011-07-27 18:57:06【迷惑な返信】@kenken_sebatex というのは、感性が攻撃されていると仮定した場合、無意識の領域なんて、そもそも存在しなはずだから。ルーティンというのは、すると無意識でさえもない。すると、一体誰が想像上の他者を作り出しているのか、ということについて少し考えを巡らせた。
2011-07-27 18:58:53.@yokotatakao想像上の他者というのは、具体的な「誰か」を想定している訳ではないんです。「イメージとして誰かが浮かんでいる」とかそういう話じゃないんです。人間である以上、世界との関係を断ち切れない。それ故、必然的に「他者一般」を想定してしまうだろう、という事。
2011-07-27 19:03:04.@yokotatakao そして、無意識というのも意識を完全に排した状態の事ではありません。普段意識している中でも、必ず無意識の領域が背後には隠されているだろうという事。僕がルーティンと言う事で意味しているのは、その様な無意識の領域が「比較的」大きい、という事です。
2011-07-27 19:06:55.@yokotatakao そう、そしてフィジカルな問題圏へと移行する。これは現前している物質のみならず、今までに経験した、あるいはこれから経験しうる物質性の領域を含む。ここに作用するのは、主体の記憶や想像力だけではない。物質の歴史性という様な物も想定する必要があるのではという事
2011-07-27 19:13:31@kenken_sebatex 「無意識の領域が比較的大きい」というのは、恐らく意識よりも無意識の方が大きく影響している、ということを意味しているのだと思うけれど、もしそうだとすれば、「物質の歴史性」って何なんだろうって考えた。
2011-07-27 19:20:55@kenken_sebatex そして、俳優の行為の話に戻るけれど、「物質の歴史性」「を」俳優はどう(意識的にも無意識的にも)取り入れ、もしくは「に」影響されているのか。そういう意味で「観客」はやはり、必要になってしまうのではないか。と。
2011-07-27 19:23:14@kenken_sebatex ここでいう「観客」が、物理的にいるにせよ、いないにせよ、俳優が行為するために必要なだけの「観客」が、やはりいなければならない。そして、その「観客」は俳優の前にやはり「いる」のだから、「無意識」には、やはり文字通り「居無い」のではないかと思う。
2011-07-27 19:25:54.@yokotatakao 勿論、現前している他者が、感性を刺激する一つの誘因になるとは思います。しかし、厳密に「現前」を考えるのであれば、現前において感得できるのは完全な物質性でしかない。観客=他我を想定するのであれば、これはやはり現前における関係性ではないのではないか。
2011-07-27 19:26:09.@yokotatakao だから僕は、演劇における他者との関係、を考える時に、それは必ずしも上演である必要はないのではないかなどと考えております。ちょっとツイート前後しましたね、続けてください
2011-07-27 19:27:02@kenken_sebatex なるほど。そういうことか。確かに、ケンケンの言う通り、現前における関係性ではない、のだと思います。(次へ)
2011-07-27 19:30:34@kenken_sebatex そういう意味で「上演」である必要は、確かにない。しかし、どうやって俳優は「観客」に演技を示しうるのか。観客とのパフォーマティブな関係性を全て排除してしまう「演技」を、「演戯play」と呼びうるのか。(三つ目で最後)
2011-07-27 19:34:14@kenken_sebatex 「無意識」であるとか「イメージ」が、個人に回収され過ぎてない?そうでもない?っていう。色々と、考えさせられるツイートでした。
2011-07-27 19:34:43.@yokotatakao 「物質の歴史性」というのは僕もまだ明確に提示できないのですが(ここの研究はもう少し必要です)、どうあれそれを「取り入れる」際には、観客=他我は厳密には必要ない、というのが僕の考えだという事は理解していただけたかと思いますが、
2011-07-27 19:47:44.@yokotatakao 他我に対して「行為を示す事」については、やはり思案しているところです。しかし、「行為を示す」って「表象」の領域じゃないですか。勿論「(行為を)示すという行為」とも言えるのであって、ここを忌避する訳ではないですが、やはり上演とは副次的な物な気がしてきた。
2011-07-27 20:00:24※補足…representation=表象=上演。
.@yokotatakao 僕は、物質の歴史性を背負った個人が行為をする、という事が即ち、パフォーマティヴな関係性を構築すると思っています。(完全に山に引き籠って仙人の様な生活をしている様な人、の扱いが分からなくなりますが。まぁ、この辺りは少し詰めれば答えは出るでしょう)
2011-07-27 20:04:51.@yokotatakao ただ、フッサールの時にも問題になりましたけど、「他我の構成」という部分がまだしっくりこない。他我認識ですね。どの様に彼の表情を感得するのか。そしてレヴィナス流の「顔」の問題圏へ…。
2011-07-27 20:09:51.@yokotatakao どうあれ、「無意識」も「イメージ」も自我が能動的に構成したのではなく、世界との関係によって初めて成立するのであって、独我論にはならないと思いますけどね。まぁ、この辺りはライプニッツ-ベルクソン-ドゥルーズの議論です。彼らは関係という言葉を使わないけど。
2011-07-27 20:12:48