祖父や祖母が、戦争で体験した哀しく悲惨…『ではなかった』話~
@J_kaliy 我慢せざるを得ず、地獄の苦しみだったそうです それ以降、食べ過ぎは良くないよ、と、孫の私や母にもよく言い聞かせておりましたw もうひとつはこの祖母の父、私にとっての曽祖父にあたる人物の話になります 曾祖父はアメリカのことに興味があり、そう曾祖父と共にスーパーマーケットを立ち上げる
2021-04-11 06:54:55@J_kaliy くらいでした(戦前に) ですので、アメリカにはビルが建ち並び、物資も技術も日本とは比べ物にならないことをよく知っておりました そのため、口癖のようにこの戦争は日本が絶対負けるからやめろ、と散々申しておりました 家族からは特警に見つかったら逮捕されるぞ、みたいなことを言われたところで
2021-04-11 06:56:51@J_kaliy 止まらなかったようです さて、この高祖父ですが、お酒が好きでして、弱いくせによく飲む男でした べろべろに酔っぱらって道端で管をまくこともあったのですが、ある時、酔っぱらってこの戦争は日本が負けると大声で叫びまわったことがございました もちろん警察がすっ飛んできたのですが…
2021-04-11 06:59:27@J_kaliy 別段逮捕されることはなく、警察に負ける理由を滔々と説教する中、警察官は慣れた様子ではいはいと返事しながら肩を貸して家まで送り届けたとの事です 当時、戦争反対を声高に叫んだところで処罰は受けなかった人も居ると申しますか、処罰を受けた人の話だけが残っているのではないのかなと思います
2021-04-11 07:01:14@J_kaliy 知人の祖父が軍のお偉いさんで米を輸送する際に荷台から何俵か落として家族がそれを回収する横流しを行っていて、食糧難の時代にそれを有力者に回して恩を売り商売を始めたって話は聞きましたね。
2021-04-11 07:02:32@J_kaliy お婆ちゃんに聞いた話ですが、曽祖父は皇室関係の場所の警護にあたっていたので、労いのご褒美?によく金平糖をもらって帰って来たそうです。幼い婆ちゃんは甘い金平糖が嬉しかったと。
2021-04-11 07:18:03@J_kaliy F外失礼します。小学生の時、身近なお年寄りに戦時中に話を聞くみたいな宿題があった。祖母に聞いたら、「疎開していたとのこと」数十年後、なんとなく母に聞いたら、疎開先に、雇用を生み出した事もあり、鮑+伊勢海老を食べていたそうです。
2021-04-11 07:21:59@J_kaliy 外からおはようございます。 亡祖父は、満州に行ったらしいけど、生前は、炭鉱経営の一族だったらしく、チーズやバターを一斗缶で貰えたらしいです。←祖母談&祖父本人は父が幼稚園年少の時に戦争後遺症で逝去。 ですが、実の孫がデートで食べたすき焼きとクリームたっぷりパフェは、お許し下さい。 pic.twitter.com/0UOdbMoD7q
2021-04-11 07:27:14@J_kaliy ばあちゃん、海外領土から引き揚げて来る時、荷物は手荷物に制限され築いた財産何もかも置いて来なきゃならなかったのに、お偉いさんは大荷物船に載せてたって戦後70年経っても怒ってたな。
2021-04-11 07:36:36@J_kaliy @aki0816 軍の宿舎では夕飯時に酒が1合出されたが、ある日何合飲めるか聞かれ、5合と答えたところ飲む事に。 5合を超えても勧められ7合まで飲んでようやく止められたとの事。
2021-04-11 07:41:57@J_kaliy 自称だけど市ヶ谷に勤めてた取引の役員さん、敗戦間際に大勢が過分な退職金付きで退職したと言ってた。
2021-04-11 07:46:03@J_kaliy @Count_Down_000 曾祖父は作戦本部で爆撃死、祖父自身は沖縄戦で撃たれて米兵に収容されたけど手術で助けられ捕虜に。少年だったので給仕役として丁寧に扱われ、米兵も悪い奴だけではない同じ人間だな。と思って日本に帰ったら強欲な日本人に所有してた土地は盗まれ寺も親族が追い出され別の人が居座っていた。
2021-04-11 07:47:46@J_kaliy 父方叔父は陸軍少年兵で出征しニューギニアで戦病死し、母方祖父は憲兵に睨まれ懲罰出征させられました。 しかし、祖父は東条英機元首相の近くに住んでて、「子供を多く残し出征するから」と海軍でシンガポールに行く様に配慮してくれ、子達に元首相が私邸で柿を採らせてくれたと逸話が残ってます。
2021-04-11 08:15:34@J_kaliy 飛行場がそばにあったからえらい目にあったとか、カボチャ売りまくって財を成したとかは聞いた。
2021-04-11 08:22:00@J_kaliy 祖父は横須賀鎮守府で海軍入りしてから、直ぐに音楽隊に入れられた為、基礎訓練以外は音楽漬けだった。 ただ、慰問で最前線に行っては演奏の日々を送っていた為に、祖母にも親にも、どこに行ったとか近況を書いた手紙も出せなかったとか。 一時、陸奥に乗艦していた話も、戦後に父が一度聞いたきり。
2021-04-11 08:27:19@yuu_T556 @J_kaliy あれ、このお二人はまさか同じ部隊… twitter.com/knm_sk/status/…
2021-04-11 08:28:55@J_kaliy 随分前に亡くなったシベリア抑留の経験のある大叔父は戦地で見た話の中で、「年度末になると食料や燃料を捨てていた。そうしないと次回予算を減らされるから」と、数年前まで年度末になると盛んに行われていた予算を年度内に使いきるための道路工事のような状況が戦争中にもあった話をしてくれました。
2021-04-11 08:39:21@J_kaliy 昔の職場の福祉施設で 「俺は台湾で、現地の人達に野菜作ってもらうのを管理する仕事してたから、怖い思いもしてないし食べ物も不自由しなかったんだよね」 とあっけらかんと話してくれたおじいさんがいましたね〜
2021-04-11 08:40:19@J_kaliy 有名?なのはあれかな。米軍が降らせたチラシ(日本の戦況や降伏を勧める)を住民には見ないように言い、チラシを拾ったら警官に全部届けさせるようにした話。 空襲の日時の予告チラシがあり、それを読んだ警官が自分の家族だけ事前に避難させて無事だったという話を以前、新聞で読んだ覚えが。
2021-04-11 08:46:21@J_kaliy 祖母の実家は食品工場で、軍にも卸していたので食べるには困らず、学校に行くと「甘い匂いがする」とまで言われた。嫁いだ先は公務員だったので官舎で鶏を飼って毎日卵を食べていた。近所の農家が野菜と交換してくれと言ってきて、家族で食べる苦労はなかったそうです。
2021-04-11 09:09:41@J_kaliy 陸軍に高射砲の探照灯陣地用に畑を提供した 駐屯していた陸軍の兵隊さんにトマトとキュウリをあげてた 喜んでいたらしい
2021-04-11 09:12:44