編集部イチオシ

『きのふはけふの物語』江戸の面白話集め

『きのふはけふの物語』という江戸時代初期に編纂された笑話集の話をいくつか抜粋して訳したもの。大変な時期の中、ここでクスリと笑ってもらえると嬉しいです(随時更新)
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こうく @usedtobe_sth

『きのふはけふの物語』 織田信長公は時々好んでお団子を召し上がる。よくお食べになられるので、京童どもは「上様団子」と囃し申した。これをとりわけ粗忽な小姓が、信長の近くで「最近はこのようなことが…」なんて申し上げた。これをお聞きになり、信長公は御立腹なさって、

2021-04-21 02:12:51
こうく @usedtobe_sth

小姓を咎めようとしたところ、曲直瀬道三がちょうど「『上様団子』というあだなは筋違いだが、世の中がそのように申すことはむしろ御誉れにもございましょう。理由を申しますと、昔天皇は粽をご覧になって大層美味しい旨を仰られてから、京童どもは天皇を内裏粽と申した。これもそれに倣ったことです」

2021-04-21 02:16:00
こうく @usedtobe_sth

といったので、信長公はご機嫌になられ、小姓を許された。総じて身分の高い人のお側にいる人は、万事気をつけたそうだ。

2021-04-21 02:16:47
こうく @usedtobe_sth

『きのふはけふの物語』 「不思議なことがある」 「どんなことだ」 「いやな、お公家さんはよく草木の名を名前におつけになられるんだ。まずは薄殿、松の木殿、薮殿、葉室殿、柳原殿、菊亭殿、竹屋殿、とこういった具合だ」 「いいや、まだあるぞ」 「誰だ?」 「藤山椒」

2021-04-21 02:19:33
こうく @usedtobe_sth

会話をしている人は、無学なのだろうか、「藤山椒」とは「藤宰相」のことを誤ったものいいだそうで、これが笑いのポイントとなる twitter.com/usedtobe_sth/s…

2021-04-21 02:20:24
こうく @usedtobe_sth

『きのふはけふの物語』は口語的な文章なので、この話も思い切って 「けったいなことがおすねん」 「なんや」 「いや、お公家さんはよう草木の名ァをつけたはることや。まずは薄殿、松の木殿・・・・・・菊亭殿、竹屋殿と、この分や」 「いやまだおすわ」 「誰や」 「藤山椒」 と訳しても面白いかも

2021-04-21 02:32:29
こうく @usedtobe_sth

『きのふはけふの物語』 昔、近衛殿(近衛信尹)を、どういうわけがあったか、豊臣秀吉公の頃、薩摩の坊津へ流しなされた。配所は鹿児島へお移りになったが、そのとき 大臣の 車にはあらで あはれにも 乗するかごしまに なふばうの津 と囃されたそうだ。

2021-04-21 02:35:48

大臣の 車にはあらで あはれにも
乗するかごしまになふ ばうの津
歌意は、大臣なのに牛車ではなく、あわれにも乗せられたのは「駕籠」しま、「棒」の津を担われている

こうく @usedtobe_sth

『きのふはけふの物語』 藤原定家の弟(普通は息子とされる)の教月坊は、事の他貧乏で、ある年の暮れに、定家のもとへ「きゃうがくが 師走のはての から印地 年うちこさん 石ひとつたべ」と詠み遣わした。定家は「定家が 力のほどを 見せんとて 石を二つに わりてこそやれ」と返し、米一俵を添えた。

2021-04-21 02:39:58
こうく @usedtobe_sth

『きのふはけふの物語』 昔、嵯峨天皇のとき、「無悪善」という落書きが建てられた。天皇は不審がられ、物知りをみな呼び寄せ、これを読ませられたが、全くこれを読み解くものがいなかった。ここに小野篁というものが出てきて「悪(さが)無くは善からん」と読んだ。そのとき、天皇は

2021-04-21 02:46:00
こうく @usedtobe_sth

激怒され、「篁よりはるかに物知りの者さえ、これを読み得なかったのに、こやつはこれを申し上げたのだから、間違いなく篁が建てたんだろうな」と仰り、流罪になろうとするや、篁は「物を知りましたら、かえって罪となることは迷惑」という旨を申し上げると、天皇は「そなたが博学ならば

2021-04-21 02:48:27
こうく @usedtobe_sth

どんなことにおいても、難しく、読まれないことも工夫して読めるだろう」とし、物知り共に問題を作らせた。物知り共は「子」を六つ書き、篁に読ませまところ、これを難なく読んでしまい、「さても物知りだ」と天皇は仰り、流罪は取りやめとなった。 子子子子子(ねこのここねこ、ししのここじし)

2021-04-21 02:50:15

『宇治拾遺物語』や『江談抄』などで類話がみえる小野篁の説話。ただし一部異なる。

こうく @usedtobe_sth

『きのふはけふの物語』 昔、三好家(三好長慶か)から天皇の御即位の費用の調達の旨がありながら、整いかねたので、誰の仕業か1首 痩せ公家の 麦飯をだに 食ひわびて 続飯だてこそ 無益なりけれ とあった。このとき堂上も堂下もお集まりになり、「なんとも憎い落書きだろうか」として、

2021-04-21 02:56:59
こうく @usedtobe_sth

たがいふぞ 麦飯続飯に ならぬとは 命をだにも つげばつがるる と返歌した。また京童は 事たらぬ ねやしもてこし 御即位を おこしておこなふ 君が代もがな と詠んだ。この頃は落書きが毎日、無数立てられ、これを三好家も無念と思ったのだろう、急いで執り行ったが、形ばかりであり

2021-04-21 02:58:47
こうく @usedtobe_sth

何者かが いにしへの はば程もなき そくいかな と言った。

2021-04-21 02:59:13
こうく @usedtobe_sth

『きのふはけふの物語』 誠仁親王がご病気のとき、半井瑞策は脈を取り違えたが 通仙は 将棋も下手と 見えにけり 王のつまるを 知らぬあわれさ と囃された。

2021-04-21 03:02:21
こうく @usedtobe_sth

『きのふはけふの物語』 藤原俊成は、91歳で亡くなれたそうである。81歳のときの歌として語られているのは いにしへの 鶴の林の 煙にも 立ちおくれぬる みこそつらけれ という。

2021-04-21 03:03:29
こうく @usedtobe_sth

昔、天下を治められた人の家来に傍若無人な振る舞いの人がおり、禁中へ参上して「陣を敷こう」といって、槍の石突で御門を叩いた。女官たちは門からお出ましになり、「ここは内裏様といって、下々が容易く参るところではありませんよ。早く早くどっかへ参ってしまいなさい」と仰ったので、

2021-04-21 07:36:58
こうく @usedtobe_sth

「この家に陣をとらせぬという尤もな理由があるならば、亭主が罷り出て、はっきりと断りを申し上げよ」なんて言った。『きのふはけふの物語』

2021-04-21 07:38:13

物知らずな故、禁裏様を知らず、天皇を亭主と呼んでしまう滑稽み

こうく @usedtobe_sth

不断光院といって、近衛殿に太閤豊臣秀吉が懇ろにする長者(近衛前久、近衛信尹か)がいた。総じて長者の格式は足打折敷で参ったが、この長者は連歌を好み、しばしば秀吉の連歌会に罷り出られたのが、秀吉は「その日ばかりは公卿衝重でお許しくだされ」と仰られた。長者はその言葉に甘え「いつも下され

2021-04-21 07:52:43
こうく @usedtobe_sth

ますように」とお望みになられると、太閤はお笑いになりとりもなおさず くぎやうをば 時々なりと すわれかし 不断くわうは いはれざりけり 『きのふはけふの物語』

2021-04-21 07:52:53

普段は足打折敷でご飯が振る舞われていたが、秀吉がそれより格式高く、料理が多い公卿衝重というもので近衛殿を振る舞うと、「いつもこれがよい」と望んで、秀吉がそれを茶化している