織田信長、なんであそこに「安土城」作ったん?/この城の防御力は?
@gms13CS 別に辺鄙な土地であることをアピールしていたわけでもないので、単純に作ってみたら色々問題が有った、という話だと思います。
2021-05-10 20:27:29@JQP1PXXHKyPpfp7 まー、本能寺までの経緯も含めて、そういう部分に信長晩年の「油断」、或いは意識の弛緩を見ることも出来るかも知れません。
2021-05-10 20:29:07@1059kanri それだと信長が好景気で金持ちになって派手な建築物をおったてる昭和の成金おっちゃんの様に見えます
2021-05-10 20:42:54@1059kanri 秀吉や家康と違って籠城戦したことがないあたり、城を防衛拠点に使うって考えが薄かったのかもしれませんね。籠もるくらいから出撃して迎撃しよう、みたいな。信長の場合、そっちのほうが勝率高そうですがw
2021-05-10 21:09:15@1059kanri 安土城は長浜城と坂本城を支城とみたてれば琵琶湖水運と東海道中山道を抑えた巨大広域要塞と言えるんやで。
2021-05-10 21:13:10安土城の立地については確かに陸路の流通ルートからは外れているけど、常楽寺湊と伊庭湊を繋ぐルート沿いであることと琵琶湖に突き出た半島上にあることから、湖上ルートの流通網の中継と監視を目的にしていたのではないかと考える。 twitter.com/1059kanri/stat…
2021-05-10 21:22:44近世城郭の画期と言われがちな安土城の、不思議というか変な所は、築城場所は当時の商業流通から外れた場所で経済感覚は無く、だからといって縄張りに地形を利用した防御を意識したフシもあまり見られない所で。ぶっちゃけ豪華な以外は適当なんですよね
2021-05-10 19:45:52あと、構造上は言われるほど防御性が低いわけではなくて、現在の復元範囲でいうと大手道を最初に折れたあたりから上はガッツリ中世山城の構造を踏襲していると思う。常に側面高所からの攻撃ができる造りになっていますよ。
2021-05-10 21:27:21@1059kanri 現在の地形ではそうですが、安土城の北側に広がる平野は近現代の埋め立て地でして、当時は添付画像のように湾になっていて安土城の立地する山が半島上に突き出していました。この湾内にあるというのは重要だと考えます。外港としては伊庭・常楽寺・円山があります。 pic.twitter.com/P7JfRxcrfK
2021-05-10 21:47:08信長の安土城、秀吉の長浜城、光秀の坂本城の3城は時期的にも縄張的にも同じコンセプトに基づいて建設されたんじゃないか?って気はするのよね……>RT
2021-05-10 21:52:49@1059kanri 安土城の存立期間が短いので城下町や交通網の整備プランがよく見えないところはありますけども、おっしゃる通りに常楽寺は信長に縁がありますし、室町時代の主要湊だった伊庭も近いので湖上の流通網から読み解いたほうがよいかと思います。
2021-05-10 21:53:29@saki_Historic 信長自身は安土築上の頃に成ると琵琶湖の水上交通を用いた記録が見えなくなり、ほぼ陸路のみとなったらしいという事もあり、色々と想像したくなりますね。
2021-05-10 21:57:49織田政権時代の近江、甲賀では六角残党がまだ活動してるし江北は一向一揆でなかなか落ち着かないし比叡山は叩きのめしたけど寺社勢力は相変わらず根強いしで陸路の安全確保イマイチ怪しい状況なので、長浜・安土・坂本を結んだ水上ラインで京・濃尾間の輸送力を担保する狙いは見えなくもない
2021-05-10 21:57:52@1059kanri 井沢元彦さんの説支持です。「平安楽土」から、天皇の「平安」京を上回る新たな価値観として名前を「安土」とし、京から琵琶湖を隔てた反対側に築城した。天下に向かってどうだ凄いだろ、オレの築く物が古い権威・価値観を上回るのだという如何にも信長らしい城。
2021-05-10 22:16:55