【近代日本海軍の創生 -幕末・明治初期を中心に-】≪幕末編≫

嘉永6年(1853年)のペリー来航に代表される「西欧の衝撃」は、250年来の太平の眠りを終焉させ、日本は国家の存亡を賭けて近代文明の受容に挑むことになりました。 とりわけ、海軍の建設は国を挙げた事業として推進されるのです。 当時は、西欧の海軍にとっても一大技術変革期でした。1850年代初頭には、依然として木造帆走式の戦列艦が決戦兵器の位置を占めていましたが、半世紀後には弩級戦艦が登場。欧米列国から大きく遅れて船出した日本はこの波濤を乗り越え、技術的自立を果たし、世界有数の海軍国に成長するのです。 本稿はその栄光の軌跡を、これまであまり注目されなかった幕末期にスポットライトをあてつつ、略述します。
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HIROKI HONJO @sdkfz01

【近代日本海軍の創生 -幕末・明治初期を中心に-】 ≪vol1 幕末編≫ 嘉永6年(1853年)のペリー来航に代表される「西欧の衝撃」は、250年来の太平の眠りを終焉させ、日本は国家の存亡を賭けて近代文明の受容に挑むことになりました。 とりわけ、海軍の建設は国を挙げた事業として推進されるのです。 pic.twitter.com/j9PXeH9wUj

2021-05-15 16:16:54
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当時は、西欧の海軍にとっても一大技術変革期でした。1850年代初頭には、依然として木造帆走式の戦列艦が決戦兵器の位置を占めていましたが、半世紀後には弩級戦艦が登場。欧米列国から大きく遅れて船出した日本はこの波濤を乗り越え、技術的自立を果たし、世界有数の海軍国に成長するのです。 pic.twitter.com/10XfOBiOrk

2021-05-15 16:17:53
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本稿はその栄光の軌跡を、これまであまり注目されなかった幕末期にスポットライトをあてつつ、略述します。 なお、稿者は日本史については全くの門外漢であり、本稿に資料的・学術的価値は無いことを予めお断りしておきます。 pic.twitter.com/zfTn6uMeiT

2021-05-15 16:18:31
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さて、ペリー艦隊が江戸湾に姿を現す数十年前から、西洋の船は我が国の近海に出没していました。18世紀末にはロシア船が蝦夷地や日本海の周辺に来航するようになり、19世紀に入るとイギリス、フランス、アメリカの艦船が頻繁に日本を訪れるようになります。 pic.twitter.com/l3OvU0Yh7j

2021-05-15 16:19:13
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こうした情勢の中で、日本の海防意識は高揚し、幕府や諸藩では西洋式軍艦の取得・建造も検討されるようになります。天保14年(1843年)、水戸藩主徳川斉昭は老中水野忠邦らに宛てた書状で西洋式軍艦の建造を説き、幕府も長崎のオランダ商館へ蒸気船の購入と軍事顧問団の派遣を打診しています。 pic.twitter.com/jOOMpPRyQk

2021-05-15 16:20:20
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しかし、当時の日本では大船の建造禁止が江戸時代初期以来の不文律と見做され、加えて「洋夷」の技術導入に対する感情的反発も根強く、老中阿部正弘の裁定で江戸湾警備の小型スループ10艘が建造された他は、水戸藩と佐賀藩で「バッテイラ」と称する小型の洋式船が数隻作られたに留まりました。 pic.twitter.com/PTDiE8fpYq

2021-05-15 16:21:19
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かかる事態を根底から覆したのは、嘉永6年(1853年)のペリー初来航です。幕府は、江戸湾口を異国船に対する防衛線としていましたが、4隻(蒸気船2隻、帆船2隻)の米国艦隊はこれを易々と突破し、一度は江戸市街を遠望できる地点にまで進出。将軍の膝元で蒸気軍艦の威力を存分に誇示したのです。 pic.twitter.com/yhwtwdXnAs

2021-05-15 16:22:09
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この時、江戸の市街では恐慌状態が発生、幕府や諸藩は震撼しました。最新鋭かつ最大級の蒸気軍艦「サスケハナ」(1850年就役、排水量3,820㌧)を旗艦とする米国艦隊は、砲艦外交の任を十全に果たしたと言えましょう。和船より遥かに優速で、無風状態でも進退自由な蒸気船に、日本人は驚嘆したのです。 pic.twitter.com/ncAwoCXLUF

2021-05-15 16:22:56
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一方で、幕府の対応も素早いものでした。「黒船」来航から3か月後には、長崎のオランダ商館との間で蒸気船購入の交渉を開始すると共に、「祖法」と解釈されていた大船建造禁止を解除したのです。かくして翌1854年には、幕末初の洋式大型帆船「鳳凰丸」(幕府建造、600㌧、画像)が竣工しています。 pic.twitter.com/ovbEfhEl6h

2021-05-15 16:23:48
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諸藩もこれに続きました。薩摩藩の「昇平丸」(1854年竣工、370㌧)や、水戸藩の「旭日丸」(1855年竣工、750㌧、画像)は「鳳凰丸」と共にフリゲート艦に分類され、日本が速やかに洋式軍艦建造技術を受容したことを示しています。この後、1860年までに幕府は帆船20隻、諸藩は同27隻を建造。 pic.twitter.com/0LHmytapCV

2021-05-15 16:24:33
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ところで、1850年代は欧米の海軍にとって帆船から蒸気船への本格的な移行期でした。1852年の英国が保有する蒸気船は、①戦列艦90隻の内17隻、②フリゲート艦124隻の内29隻、③その他小型艦257隻の内126隻、④全ての軍艦475隻の内176隻(37%)。この時点では、木造帆走軍艦が依然中心だったのです。 pic.twitter.com/ayTPRc8iSJ

2021-05-15 16:26:15
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主力となる戦列艦やフリゲート艦が帆走だったのには理由があります。初期の蒸気船が用いた外輪は戦闘で容易に破壊されるばかりか、船体中央に大型の装置を設置せねばならず、加えて機関の重みで喫水線が上昇する為、備砲の大幅な減少が不可避だったのです。画像は帆走戦列艦アブキール、1848年進水。 pic.twitter.com/SOIF3UYo05

2021-05-15 16:27:11
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実際、英国海軍は1845年に実験的外輪軍艦「テリブル」(画像)を建造していますが、同艦は3,100トンという戦列艦並みの巨躯を有していたにもかかわらず、その砲数は僅か19門に過ぎず、フリゲート艦に分類されます。これに対し、同サイズの帆走戦列艦は80門を搭載できたのです。 pic.twitter.com/pwAD2h0VhV

2021-05-15 16:28:05
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ペリー艦隊も事情は同様で、旗艦サスケハナは世界最大級(3,820㌧)の蒸気軍艦でしたが、備砲は15門。ペリー提督は艦隊に帆走戦列艦ヴァーモント(2,600㌧)を加えるよう求めましたが予算上の都合により上層部から却下されています。同艦は74門を搭載し、単艦で他の4隻合計の備砲数を上回りました。 pic.twitter.com/2zZUvRROSd

2021-05-15 16:29:01
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しかし、スクリューと小型で大出力の新型高圧機関が登場すると、状況は一変。外部に露出する外輪の脆弱性は解消され、巨大な戦列艦を蒸気機関で自在に動かせるようになったのです。1850年、フランスは世界初の蒸気戦列艦ナポレオンを進水させ、英仏間に一大蒸気軍艦建造競争が惹起されます。 pic.twitter.com/ITDBZdM2e3

2021-05-15 16:29:58
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かくて英国海軍の蒸気船率は前述の37%(1852年)から61%(1858年)へと上昇。同じ期間にフランスは32%から66%へと伸びています。1862年の英海軍が有するスクリュー艦は、戦列艦61、装甲艦15、フリゲート艦44、小型艦197、合計317。外輪からスクリューへの移行が汽走化を著しく進展させたのです。 pic.twitter.com/AR3AfJKfoA

2021-05-15 16:31:01
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なお、民間海運で蒸気船が主力を担うのはもっと遅く、英国の蒸気船の船腹量が帆船を上回るのは1883年です。従って、1860年代初頭までに(ペリー初来航から7年程度!)日本が50隻近い西洋式帆船を建造し得た事は、蒸気船国産という次の段階に進む上で極めて重要だったのです。画像は長州の帆船、庚申丸 pic.twitter.com/hOX2XXhhM5

2021-05-15 16:31:54
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蒸気船建造の試みは早くから行われ、ペリー初来航前の1851年、薩摩藩主島津斉彬は蒸気機関の製作を命じ、同藩は蘭書等を参考に1855年に試作品を完成。同年これを和洋折衷式の小型船(雲行丸)に搭載して試験航海を成功させました。同船の性能は低劣でしたが、日本初の蒸気船として知られます。 pic.twitter.com/k2o5bZu4r0

2021-05-15 16:32:50
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また、1859年(資料によっては1855年)には宇和島藩がわが国で二番目の蒸気船の試作に成功しています。しかし、詳細が伝わっていないことが惜しまれます。 pic.twitter.com/WAQsgfmsZk

2021-05-15 16:34:23
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実用的な蒸気船として日本初めてのものは、佐賀藩が1865年に竣工させた「凌風丸」とされます。全長18㍍、機関出力は10馬力と小型(オランダから購入した蒸気船の機関を参考にしている)で、性能も不十分だったと伝えられますが、明治時代まで運用されました。 pic.twitter.com/vZ6OsDtQAK

2021-05-15 16:35:17
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翌1866年には幕府の小型汽走砲艦「千代田形」が竣工。同艦は全長30㍍、158㌧、機関出力60馬力と小型ながら、日本で初めてスクリューを採用したことに特色があります。船体は石川島造船所、機関は長崎製鉄所、ボイラーは佐賀藩が制作するなど、挙国一致の精華とも言えましょう。(詳細後述) pic.twitter.com/tLzsljTkQD

2021-05-15 16:36:32
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こうして日本は江戸時代最末期に曲がりなりにも蒸気軍艦の国産化に成功しますが、それまでの汽走海軍の建設は専ら輸入に依存することとなります。 結果、ペリー初来航から明治維新(1868年)までの15年の間に輸入された蒸気船は、幕府27隻、諸藩55隻、合計82隻に上りました。 pic.twitter.com/kAimwZ0x4o

2021-05-15 16:37:30
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この間、輸入される艦船は次第に大型化・重武装化し、明治維新前後の日本の海上戦力は東アジア最大級の地位を誇るまでになります。 しかし、本稿の記述は先を急ぎ過ぎたようです。海軍の整備は、軍艦の頭数さえ揃えれば良いと云うものではありません。 pic.twitter.com/fEoti55pFU

2021-05-15 16:39:01
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国内外の情勢に合致した戦略を策定し、それに相応しい人材を育成し、組織や制度を整え、戦闘技術や艦船整備のための設備とノウハウを獲得してこそ、近代海軍はその真価を発揮し得るのです。 そこで、一旦、黒船来航直後に話を戻しましょう。 pic.twitter.com/Ry7ljqrbAo

2021-05-15 16:40:17
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未曾有の国難に直面した老中阿部正弘は、1853年、米国の国書を開示。ペリー再来航に備える策を募りました。これに応えて大名から庶民に至るまで800通もの意見書が寄せられます。なかでも前水戸藩主徳川斉昭や尾張藩主徳川慶恕はオランダからの蒸気軍艦取得を主張しました。 pic.twitter.com/a8y696MRu1

2021-05-15 16:41:23
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