
「伊能忠敬、元々商家への婿入り養子」 ー 商売を隠居した50歳から地図製作に必要な基礎知識を学び、4万㎞歩いて地図作った
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伊能忠敬、実は元々商家への婿入り養子で、商売で大成功して隠居した50歳から天文や測量など地図製作に必要な基礎知識を学んで、4万㎞歩いて地図作ったのよね。「市場経済上の義務を果たした後に健康的で情熱を持てる文化的事業に余生をかける」ってのは充実した人生の一類型として絶対存在するよね。 pic.twitter.com/VjP585Wyn7
2021-08-28 10:11:56

ふと考えた。例えば伊能忠敬の一代記を、忠敬を知らない人が読み始めたら、「ああ、商人として成功する話なんだな」と思うことだろう。作者が後々の伏線として忠敬を「科学的探究心の持ち主」とキャラクター設定しても、読者はそれがどこにつながるのかよく分からなくて戸惑うだけかもしれない。
2020-07-28 07:22:03
伊能忠敬が50歳で隠居した時に19歳年下で幕府天文方に任命されていた高橋至時に師弟の礼をとって師事して、相当厳しく教育されたらしいんだけど、伊能忠敬は亡くなる時 「全て高橋至時先生の教えのおかげだから、私の遺骨は(先に亡くなっていた)先生の隣に。」 と言い残したくだりが余りにエモすぎる。
2021-08-28 10:49:38
#お前ら誰が主人公の大河が見たいんだ もちろん #伊能忠敬 先輩の大河です! 商売で儲かったお金を地図作りにぶちこみ、50歳で測量の先生に弟子入り、55歳から日本全国歩き始めた。 しかも地図を作ったのが「地球の大きさが知りたかったから」😲 規格外の胸熱ストーリー、見たくないですか? pic.twitter.com/vU14Q1hoRU
2021-01-20 15:21:40

@tyuusyo 織豊時代で既に検地という測量技術が完成してますよね。 伊能忠敬も土木の心得と人足の手配術を認められて伊能家に養子として迎えられ、飢饉に対応すべく暦学・天文学を学ぶようになり、大日本沿海輿地全図作成に繋がっていく事を考えれば、「明治まで科学はない」なんて恥ずかしくて言えません。
2018-09-02 08:51:39
初めて伊能忠敬の地図と現代の地図を見比べた時に、鳥肌がたったのを覚えている。 なぜ鳥肌がたったのか?それは伊能図の正確性ゆえにであろう。 もう一つ覚えているのは、伊能忠敬の映画で いくら商売に成功しても婿養子の忠敬には蔵の鍵を自由に扱う権利はない という描写が印象に残っている。 twitter.com/wgextra/status…
2021-08-30 01:19:22
ついでに言えば、伊能忠敬はべつに地図を作りたかったわけじゃなくて、地球の大きさを知りたかった。 地球の大きさを測るのに、正確な地図が必要だった+地図作りだったら予算が下りる!と見込んだ→地図の人として名前が残った 考えはでっかいし、予算をもぎ取る知恵も持ってた。ほんとすごい。 twitter.com/cynanyc/status…
2019-01-14 09:04:08
伊能忠敬は結果として地図を作っただけです。本当は天文学に興味があり地球の大きさを計算つもりでした。地球の距離と角度で計算するため長い距離を歩く必要がありました。幕府から許可をもらうため、蝦夷に行くのは地図を作ると言う口実でした。結果的にその地図が彼の業績となりました。 twitter.com/wgextra/status…
2021-08-28 21:28:55
そもそも忠敬に日本地図を作らせたのは時の第11代将軍老中松平定信で彼は日夜迫りくる北海道ロシア対策や九州オランダ、イギリス果てはペリー艦隊に至るまで苦しめられていた。取り敢えず日本の正確な湾岸地図を作ろうと試しに伊能忠敬に北海道を作らせたのが発端なのだが余の正確さに後幕府直轄になる pic.twitter.com/ZPe2u30GPu
2021-02-21 17:59:13

@NIPPONDAISUKI33 1821年没後完成した伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』 第1回目の測量は蝦夷地を選んでいます。ここを選んだのはロシアの圧力があったからです。 なお、竹島は「桂島」という名称で方位のみ示しています。 pic.twitter.com/sffENCKlh6
2019-03-03 11:01:29

意外にも、17世紀の間に幕閣は、オランダ側に命じて様々な技術移転の要請をしている。大砲の撃ち方の教練や医術の実践、数学(恐らく当時の文脈からすると地図作製法)の教授が行われた。オランダ東インド会社も、貿易を有利に進められるならばという目論見で、幕府の要請に応じている。
2013-07-01 19:55:04
歴史を辿っていくと幾つもの幸運な「偶然」にぶち当たるが、17世紀の日本がオランダと貿易や交流をしていたこともその1つだろうと、科学史・技術史の文脈から考えている。第一に、オランダは当時、ガラス職人をたくさん国内に抱えていたこともあり、レンズ製品(メガネ等)が大量に日本に流入した。
2013-07-01 19:38:47
第二に、オランダは周知の如く運河や堤防を作りまくり、河川管理も社会的な重要案件となっていたので、測量術が異様に発達していた。(18世紀以降、フランスにその座を譲るが。)その最盛期の測量術がダイレクトに日本に流入。さらにこの基本技術が、100年後の伊能忠敬の全国地図へと結実する。
2013-07-01 19:42:31
日本の洋学はオランダ経由で吸収が行われていたが、殊天文学に関してはラランドの影響が強くなっている。…と云うのも、実はオランダの天文学教本として用いられたものの実態はAstronomia of Sterrekundeと云う、ラランドの本の蘭訳本だったのである。故に『ラランデ暦書』。
2015-01-12 15:24:25
ねこ座。1799年、猫好きの天文学者ラランドによって考案されましたが、1922年の国際天文学連合で却下され、現在は使われていない星座です。昔の星図を見てねこ座に思いを馳せましょう。 #きょうの猫アート pic.twitter.com/xfMEA5GjjV
2017-07-07 16:39:12

面白いですねえ。このラランドの書いた教科書(オランダ語訳本)が日本に輸入されて、伊能忠敬の日本地図作りのきっかけになったんですよね。 twitter.com/aoi_skmt/statu…
2017-07-08 16:15:18
#伊能忠敬 率いる測量隊が完成させた大日本沿海輿地全図(伊能図)がこちら🗾✨ 17年もの歳月をかけ全国の測量を成し遂げましたが、忠敬は全図の完成を見る前にこの世を去ります。 忠敬の熱き思いを引き継いだ弟子たちの手により、伊能図は完成しました! #お前ら誰が主人公の大河が見たいんだ twitter.com/ZENRIN_officia… pic.twitter.com/J8E3vqceDp
2021-01-20 15:55:52

今学期の千葉大での講義のまとめ。 佐原のご隠居さん伊能忠敬が、どのような科学史的背景から日本地図を作るに至ったのか。グローバルかつローカルな視点から語ってみた。「科学史」の講義を千葉大学用にカスタマイズしてみたらこんな風になったという次第。 pic.twitter.com/maXCTBEie9
2020-01-23 20:00:31

伊能忠敬の話をしたついでに。伊能もすごいけれども、やはり忘れてはならないのは、全国各地で彼をサポートした、地域の古い測量家の存在。地元の人間がいなければ道案内もままならないし、効率的な測量はできなかったはず。一方、地元の測量家たちは伊能の姿を見て、最先端の測量知識を学んでいった。
2012-06-18 21:03:33
江戸時代最初の頃にイエズス会宣教師経由で天文学その他が入ってきて、結構忘れられずに知識人の間に伝承される。オランダからは測量術も入ってきて、吉宗以後はそれが加速し、江戸時代後半には地域の蘭学というべき「在村蘭学」があちこちに展開して西欧の知識が普及する。こんな概観になる。
2019-03-29 22:06:25
「あの時はお世話になりました」 江戸時代に伊能忠敬の測量に協力した子孫を探しています 協力者約1万2000人の名前をデータベース化し発表 - ねとらぼ nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/16… @itm_nlabから pic.twitter.com/K1aWafD5KG
2016-02-16 11:16:27

時空を超えたつながり。元気が出る余録です。伊能忠敬の測量日記には1万2000人の協力者の名前が残っています。そこで2年前、彼らの子孫たちに名乗りをあげてほしいと協力者の名前を公開したところ約100人の申し出が寄せられているそうです。 仕事は生き続けます。mainichi.jp/articles/20180…
2018-01-04 07:00:18