日常的概念と理論的概念:エスノメソドロジーと哲学の視点

2011.08.28の「哲学者、エスノメソドロジーに遭う」http://d.hatena.ne.jp/contractio/20110828 の前哨戦。
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KOMIYA Tomone @frroots

お風呂入って寝ないと。

2011-08-23 01:07:39
KOMIYA Tomone @frroots

うわー、間違えてた。ここ「デネットは…同意している」です。/Twitter / @frroots: ベネットは、神経科学の多くにデカルト主義が残っている ... http://t.co/vqYD0ch

2011-08-23 01:09:27
KOMIYA Tomone @frroots

だいたいベネットとデネット、似ててまぎらわしいんじゃ。

2011-08-23 01:09:52
KOMIYA Tomone @frroots

ロナルド・ドゥウォーキンとアンドレア・ドゥウォーキンほどではないにしても。

2011-08-23 01:10:31
at_akada @at_akada

@frroots 何点か疑問があってですね。今答えなくてよいというかむしろ28日に答えてほしいのですが、この機会に事前に書いておきます。(なのでそのまま寝てくれて大丈夫です)

2011-08-23 01:31:03
at_akada @at_akada

@frroots (1)「直観」について。「哲学者の直観に頼るわけにはいかない」というときに、「直観」は経験的なものではないことが含意されているように見えます。しかし、哲学者も多くの場合、非常にいろんな事例をとりあげるんですね。(つづく)

2011-08-23 01:33:22
at_akada @at_akada

@frroots 具体的には、たまたま今思いついた例でいうと「知る」について、、非常に多くの事例が議論の対象となります。有名な例では、ゲティアケースというのがありますが、ゲティアケースだけでも何種類もの事例があってそれが分析の対象になってます。

2011-08-23 01:36:57
at_akada @at_akada

@frroots あるいは「知る」の用法についても、know thatやknow howについて、それがどんな含意をもっているのかの分析があります。そういった事例が「経験的」といってよいかどうかはよくわからないんですが、

2011-08-23 01:38:25
at_akada @at_akada

@frroots 一方、EMのビデオや録音の分析というのは、量的な研究とちがって、「数が多いから価値がある」というのでもないし、「まったく未知の新規な要素が発見される」というものでもないわけですよね。

2011-08-23 01:40:14
at_akada @at_akada

@frroots だとすると、哲学者の直観に頼るケースと、そういったビデオや録音データの分析はどういう部分が違っていて、後者にはどういうアドバンテージがあるのか、これは純粋に知りたいです。

2011-08-23 01:41:38
KOMIYA Tomone @frroots

@at_akada 『心と行為』の序章だか1章だかを再読していただくのがいいのではないかと思いますが、簡単にお答えすると。まずおっしゃる通り、哲学者が持ち出す事例と、録音や録画は、その事例の身分という点では、同じです。つまり、新たな事実の発見のために用いられているのではない。

2011-08-23 01:43:52
KOMIYA Tomone @frroots

@at_akada 他方で、哲学者が用いる事例は、多くの場合、想像上の事例です。その点で、事例自体がすでに何らかの理論を前提にしていたり、過度に脱文脈化されているおそれがある。それに対して録音や録画は、少なくとも想像の事例に比べて、我々の社会生活を組織している言語使用に近い。

2011-08-23 01:46:02
at_akada @at_akada

@frroots いや、正式な答えは28日にお願いします

2011-08-23 01:46:12
KOMIYA Tomone @frroots

@at_akada その点で、得られる知見と事例の関係は同じでも、録音や録画のほうが、より「精巧な」ものだと言える。だから現場に行って録音録画する価値がある(ここではさしあたりそのことを「経験的」と言っています)。

2011-08-23 01:47:32
KOMIYA Tomone @frroots

@at_akada じゃ28日までに『心と行為』は再読しておいてくださいw

2011-08-23 01:48:00
at_akada @at_akada

@frroots はい、予習はします。若干時間がきびしいですがw

2011-08-23 01:49:21
at_akada @at_akada

@frroots あともう1点(2)「概念」について。たとえば、個人的には、コンピューターが「計算する」は比喩ではなく、日常の「計算」概念と、コンピューターが計算するというときの「計算」に違いがあるのかというのは疑問です。

2011-08-23 01:50:29
at_akada @at_akada

@frroots で、たとえば「コンピューターも計算するといった方が日常の用法にあっている」とか「計算概念について深く考えれば、コンピューターと人間の計算には、本質的に重なる部分が多い」とかいう考え方もあると思うんですね。

2011-08-23 01:52:16
at_akada @at_akada

@frroots しかもこういった反論は、「日常的な用法は不完全だ」というものではなく、「AよりもBの方が日常的な用法にあっている」というタイプの反論なわけでです。それに対し、こみやさんとかが「実践に即した概念の探求」みたいなことを言うときに、

2011-08-23 01:54:04
at_akada @at_akada

@frroots 「日常的な概念はこっちだ」と主張するときに、何をその根拠にしようとしているのか(「計算」はあくまでただの例としてあげたものです)。

2011-08-23 01:57:26
at_akada @at_akada

@frroots なんかこみやさんの言うことを見ていると、その根拠というのは、「ふつうの人が計算とはどういうものだと思っているか」でもないし、「『計算』のいろんな用法にあうような分析にする」ということを目指しているわけでもないように見える。

2011-08-23 01:59:12
at_akada @at_akada

@frroots そうなると、「では、『日常概念ではこうだ』というとき、その根拠としてどういうものを重要視しようとしているのか」というのが素朴に疑問です。

2011-08-23 02:01:07
KOMIYA Tomone @frroots

@at_akada コンピュータが「計算する」は私はやっぱり比喩的だと思いますね。私たちが「コンピュータを使って計算する」の。別にだからといってそれが異常だとか、非日常的な使い方だとか言うつもりはありませんが。

2011-08-23 02:02:31
at_akada @at_akada

@frroots 「日常」をどう扱おうとしているのかと言い換えてもいいかもしれません。哲学者にとっては「直観や日常の言語使用の身分をどう考えるか」というのがこれに近い問いで、やはりその答えは哲学者にとっても非常に重要な問題であるかと思います。

2011-08-23 02:02:55
KOMIYA Tomone @frroots

@at_akada 比喩かどうか(基礎的な用法に依存した、派生的な用法かどうか)という区別と、日常的/非日常的 or 専門的etc. という区別はわけたほうがいいですよ。

2011-08-23 02:03:39