アラン『教育論』読書メモ集

アラン『教育論』(八木冕訳、白水社、1997)の読書メモをまとめました。
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荒木優太 @arishima_takeo

軽蔑のなかでおそろしいのは、自分自身に対する軽蔑、すでに乗り越えられた自己に対する軽蔑という部分である。byアラン『教育論』19

2021-10-24 17:02:33
荒木優太 @arishima_takeo

ところで、あらゆる授業の眼目は、そしてとりわけ最もたいせつなことは、必要を前にしては策略をめぐらしえないということである。「ねばならぬ」というこの短い言葉の意味を学んでいる者は、すでに多くを知っているのである。byアラン『教育論』39

2021-10-24 17:21:09
荒木優太 @arishima_takeo

美しいリンゴは美しいオレンジのよりも傷んだリンゴにずっと似ている。byアラン『教育論』79

2021-10-25 16:37:43
荒木優太 @arishima_takeo

ジェネロジテを「雅量」と訳すのか。ほう。 pic.twitter.com/UCwK9ZNBVc

2021-10-25 17:02:12
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荒木優太 @arishima_takeo

「高邁さ」みたいな訳語が多いかな?

2021-10-25 17:02:38
荒木優太 @arishima_takeo

学校は真剣さという点で仕事に通じるものをもっている。だが他面において学校は仕事のきびしい法則から免れている。学校では、まちがいをしてはやりなおすのだ。そこでは足し算をまちがえても破産する人はいない。byアラン『教育論』100

2021-10-25 17:36:51
荒木優太 @arishima_takeo

人々は考えることを好まないものだが、それは彼らが、まちがえはしないかと恐れるからだ。考えるということは、誤りから誤りへとたどってゆくことだ。byアラン『教育論』110

2021-10-26 18:11:00
荒木優太 @arishima_takeo

われわれの思考の規則が細部から全体へと進んでゆくものであるなら、すべて細部というものはさらに細かく分かれて、しかも際限がないから、われわれは何ごとについても絶対に考えなくなってしまうだろう。全体的な精神、これが精神なのである。byアラン『教育論』134

2021-10-26 18:12:46
荒木優太 @arishima_takeo

この遊星の上にいる人間の数と同じだけ、意地悪だったり不幸だったりするしかたがあるものだ。byアラン『教育論』193

2021-11-01 13:25:54
荒木優太 @arishima_takeo

「流行を追おうなどとはたしかに全然考えなかったにちがいないかの有名なベルグソンはたまたま運よく、みずから求めずして当世流行の人となり、技術者たちが追従する人となっているのである」(アラン『教育論』216)。ん、ここの言及なんか意味深だな。メモ。

2021-11-01 13:27:39
荒木優太 @arishima_takeo

無知など、なんでもないものなのだ。無知は精神の悪徳をなんら示すものではない。これに反して、情動にもとづく過失は教養のない精神を、あえて言うなら正しくない精神をすら、あらわに示すものである。byアラン『教育論』261

2021-11-02 13:31:09
荒木優太 @arishima_takeo

精神とは、日常用語としての意味からわかるように、少なくとも笑うことのできる人間の部分であり、恐怖を知らぬ部分である。byアラン『教育論』291

2021-11-02 13:32:19
荒木優太 @arishima_takeo

アラン『教育論』読了。大きなポイントは二つ。第一に学校は家庭と対立しており、秩序立っていなければならず、退屈でもいい。第二に、学校では失敗や無知が特に許されねばならない(ちょっとだけインクや紙が無駄になるだけ)。

2021-11-02 13:34:44