塚本靖代『尾崎翠論 尾崎翠の戦略としての「妹」について』読書メモ

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かんた @0sak1_m1d0r1

全体を鳥瞰したときに、研究論文として出されているものには表現技法の分析が多く、評論として出されているものには「少女文化」からのアプローチが多いことに気がつく。この偏りには明らかに、「何を文学研究とするか」をめぐって文化的な権力関係がはたらいている。 (塚本靖代『尾崎翠論』43、44)

2021-11-09 13:15:54
かんた @0sak1_m1d0r1

異国趣味やフリルという「ひらひら」とした「少女」的な記号とともに、二十四年組は少年同性愛という表象を用いることによって「性」の問題を少女漫画に持ち込んだ。それは少女漫画の読み手である少女たちに否定されるどころか、圧倒的な支持を受けた。 (塚本靖代『尾崎翠論』48) 戦略的だな。

2021-11-09 15:23:35
かんた @0sak1_m1d0r1

常にすでに「女」というマークがテクストに貼り付いていながら、「作者」を切断したときに起こっていることは、「作家」を性が介在しない普遍的な存在とすることではなく、「人間=男性」中心主義による「作家」の男性化にすぎない。 (塚本靖代『尾崎翠論』) なるほど…。

2021-11-13 23:54:59
かんた @0sak1_m1d0r1

「文学」という制度は現在においても、生身の「作者」とテクストとを切り離しては成立し得ない制度であるにもかかわらず、文学研究はテクストから性を剥奪し、自らを普遍化することによって、「文学」という制度に内在するセクシズムを隠蔽しているといえる。 (塚本靖代『尾崎翠論』56)

2021-11-14 00:01:23
かんた @0sak1_m1d0r1

学問によって社会的上昇を果たそうとする青年たちは、「新しい男」のアイデンティティのひとつとして「恋愛(love)」を掲げていた。「恋愛」をして結婚し、近代的な「家庭(home)」をつくることは、新しい知識を学んできた青年たちの達成すべき価値であり、

2021-11-15 23:01:48
かんた @0sak1_m1d0r1

憧憬の対象であった。 (塚本靖代『尾崎翠論』88)

2021-11-15 23:02:01
かんた @0sak1_m1d0r1

「新しい男」は自らがつくりだした「恋愛」という観念を実行するために、自分と「恋愛」をすることができる「新しい女」をつくる必要があったといえる。 (塚本靖代『尾崎翠論』89)

2021-11-15 23:03:58
かんた @0sak1_m1d0r1

家父長に同一化する以前の兄がいることによって、妹は自分の体を性的に消費されることなく男たちに接近し、理解者と自分一人では手に入れることの難しい新しい知識とを得ることができるのだ。 (塚本靖代『尾崎翠』95)

2021-11-15 23:12:51
かんた @0sak1_m1d0r1

「部屋」という言葉は、「部屋住み」「大部屋俳優」など、もともとはけなし言葉であり、使用人や病人を隔離うる空間であったが、「子ども部屋」「勉強部屋」などが出現すると蔑みのニュアンスが消えていき、「部屋」という言葉の価値観は大きく逆転している。 (塚本靖代『尾崎翠論』99) トリビアや

2021-11-15 23:19:33
かんた @0sak1_m1d0r1

現代の<少女>は初潮後の少女だが、彼女たちもまた「性なき存在」として振る舞っており、<おばあちゃん>と少女は同質の存在として表象されているという。 (塚本靖代『尾崎翠論』108) 初潮前の幼女と閉経後の老婆の親和性について

2021-11-15 23:44:19
かんた @0sak1_m1d0r1

三と五という二つの数字を持つ三五郎は、半分は一助、二助に続いた兄であり、半分は浩六、当八に至る兄ではない存在であり、四の不在は、兄と兄でない存在のギャップを表しているのだろう。 (塚本靖代『尾崎翠論』117)

2021-11-16 11:04:50
かんた @0sak1_m1d0r1

女性の身体に性的な価値しか与えず、一方的に消費する社会への抵抗として「兄妹恋愛」というモチーフは現在も有効であり、その意味で、尾崎翠の時代と現代とは、同じ社会的な問題を抱えているといえる。 (塚本靖代『尾崎翠論』138)

2021-11-16 19:35:10
かんた @0sak1_m1d0r1

尾崎翠の作品に描かれた「妹」たちは、決して兄たちに、そして男性読者に危機感を与えるような存在ではない。独特のユーモアと高度な表現主義的技巧をまとう尾崎翠の作品がもつ批判性は、

2021-11-16 19:41:11
かんた @0sak1_m1d0r1

「妹」に安心してしまっている人には見えないように仕組まれた、高度な「妹」という演技である。 (塚本靖代『尾崎翠論』141)

2021-11-16 19:41:28