茂木健一郎さん連続ツイート2011年9月

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茂木健一郎 @kenichiromogi

たわ(6)台風はもちろん危険なものであるが、だからこそ、わくわくすることで、脳はその潜在能力を最大限に発揮できる。わくわくは、偶有性への適応戦略である。子どもの頃、「大型で強い台風」と聞いて胸がわくわくしていたのは、そんな理由があったのである。

2011-09-03 05:52:53
茂木健一郎 @kenichiromogi

たわ(7)戦国武将が自分が死ぬかもしれない合戦に向き合ったとき、もちろん不安や恐怖もあったろうが、それを上回る「わくわく」もあったろう。とりわけ、織田信長のようなすぐれた武将はわくわくしていただろう。わくわくは、明るい狂気であり、私たちはそれゆえに生きることができる。

2011-09-03 05:54:29
茂木健一郎 @kenichiromogi

たわ(8)どんな生き方をしていても、「どうなるかわからない」という偶有性は避けられない。安全に、確実に、と思っていても、その前提事態が崩れることがある。だから、むしろ、私たちはふりかえって、開き直って「どうなるかわからない」に立ち向かっていくべきなのだ。

2011-09-03 05:55:54
茂木健一郎 @kenichiromogi

たわ(9)台風はなるべく来ない方がいいが、日本には、今、グローバリズムという「台風」が来ている。大型で強く、「熱帯低気圧」には変わりそうもない。誰でも経験があるだろう、子どもの時の「台風が来る前にわくわくする」という心の働きを、大人になった今こそ思いだそう。

2011-09-03 05:57:24
茂木健一郎 @kenichiromogi

以上、「台風が来る前にわくわくする」ことについての、連続ツイートでした。

2011-09-03 05:57:40
茂木健一郎 @kenichiromogi

みと(1)野田内閣の支持率が、各社の世論調査で比較的高めに出た。「らしさ出た!? 地味に高い62.8%」(スポーツニッポン)との評もある。自分のことを「どじょう」にたとえた庶民派宰相への、とりあえずの期待感を反映しているのだろう。

2011-09-04 07:27:11
茂木健一郎 @kenichiromogi

みと(2)ところで、時代に求められているのは透明性である。以前ならば、情報を都合のいいように操作して、人々の印象を形成する、ということが当たり前の広報戦略として行われていた。ネットが浸透し、情報が流出する現代においては、このようなアプローチは成立しない。

2011-09-04 07:28:28
茂木健一郎 @kenichiromogi

みと(3)たとえば原子力発電所の安全性や経済性について、情報操作であるイメージを作ったとしても、必ずそれに反する情報も出てくる。情報操作をした分、信頼は失われる。ネット時代には、透明性だけが、人々の信頼を勝ち取る道となるのである。

2011-09-04 07:29:47
茂木健一郎 @kenichiromogi

みと(4)ウィキリークスは、たとえ民主主義国家であろうとも、さまざまな秘密、暗部を抱えていることを明らかにした。透明性こそが信頼を獲得する道である、という現代の原理・原則に照らして考えれば、国家の 統治機構もまた、可能な範囲において透明なものにならなくてはならない。

2011-09-04 07:30:52
茂木健一郎 @kenichiromogi

みと(5)情報操作の時代から、透明性の時代へ。この変化は、人々の側にも情報リテラシーの向上を要求する。「安心です」「安全です」といった、操作された情報に安住するのではなく、正、負両方ないまぜになった情報のポルトフォリオを、自分で判断する必要に迫られるのである。

2011-09-04 07:32:28
茂木健一郎 @kenichiromogi

みと(6)時代に必要な「透明性」の認識はまだ不十分で、一昔前の「情報操作」のマインドセットに浸っている組織も多い。一方、今後、組織に透明性が浸透していった時に、返す刀のように「私たち」に求められるものものも出てくる。それは、私たち自身の「透明性」である。

2011-09-04 07:34:20
茂木健一郎 @kenichiromogi

みと(7)民衆自体が、不透明な存在になりつつある。私たち自身が、果たしてどのようなプロセスで自分たちの意見を選択し、感性を形成しているのか? 「世論調査」の数字の背後にあるものは何なのか? それを自己探求する努力がなければ、結局、民衆が一番不透明ということになる。

2011-09-04 07:35:50
茂木健一郎 @kenichiromogi

みと(8)世論調査の数字とは、一体何か? なぜ、政党別の支持率がある特定の数字になるのか。民衆の意見だからと言って、無条件で容認されていいのか? 組織に求められるのと同じような透明性が、私たち一人ひとりに求められる時代になる。つまりは、自省の精神である。

2011-09-04 07:37:00
茂木健一郎 @kenichiromogi

みと(9)実際には、支持率の数字をつくっているのは私たちの中のあいまいな印象であろう。そこに、いいかげんさやハザードはないのか。組織が透明になり、筋肉質になるにつれて、民衆の側も進化しなければ、きっと時代に取り残される。それは民主主義の危機ともなろう。

2011-09-04 07:38:04
茂木健一郎 @kenichiromogi

以上、「民衆の側にも求められる透明性」についての連続ツイートでした。

2011-09-04 07:38:29
茂木健一郎 @kenichiromogi

「連続ツイート」をお届けします。文章は、その場で組み立てながら即興的に書いています! 今朝は、昨日の藝祭のシンポジウム要旨!

2011-09-05 07:02:58
茂木健一郎 @kenichiromogi

てか(1)芸大の市ノ瀬くんががんばって天才論のシンポジウムをしたので行ってきた。何をしゃべるか全く考えていなかったけれども、大谷先生の話を聞いているうちに、そうだ、スピノザの話から行こう、と思った。

2011-09-05 07:03:45
茂木健一郎 @kenichiromogi

てか(2)「天才」は神の概念と大いにかかわる。ヴィトゲンシュタインは、「この世界が存在すること自体が驚異」と書いたが、その「世界」を「創造」した「神」が、「天才」のひな型である。ところが、その「世界」は完全ではなかった。

2011-09-05 07:04:45
茂木健一郎 @kenichiromogi

てか(3)神がつくった世界の因果的法則は精緻だが、そこには何か欠けたものがあって、それを補うのが人間の才能である。これがルネッサンスの天才概念。神の創造した世界に欠けているものを補うのが、芸術であり、科学である。つまり、隙間を用意してくれていた。

2011-09-05 07:05:46
茂木健一郎 @kenichiromogi

てか(4)その「神」だが、スピノザの『エチカ』の体系によれば絶対的な無限である。従って、「神」には「身体」はない。もし身体があれば有限だからである。また、「神」には「知性」もない。知性は、有限な世界の中でのオペレーションだからである。

2011-09-05 07:06:43
茂木健一郎 @kenichiromogi

てか(5)天才概念は、つまり、有限な存在である人間が、絶対的無限である「神」の領域に近づこうという飛躍のプロセスであって、常に幻想に導かれた挫折に終わらざるを得ない。それでも、その過程でさまざまな意義深い「作品」が生み出されもする。

2011-09-05 07:07:45
茂木健一郎 @kenichiromogi

てか(6)天才とは、一方、病理学の問題でもある。天才は、必ずバランスを崩している。バランスを崩しながら何ものかを生み出すという、奇跡のトリックを見せる。しかし、ここがやっかいなのだが、バランスを崩していれば天才、というわけではない。歩留まりが悪いのだ。

2011-09-05 07:09:04
茂木健一郎 @kenichiromogi

てか(7)天才を育む教育機関は、存在しない。天才は、本質的に逸脱であり、疾走だからだ。コントロール不能、ということこそ、天才のメルクマールである。東大であれ、芸大であれ、評判の高い教育機関に行くということと、その人の才能は関係ない。むしろそれは保険でしかないのだ。

2011-09-05 07:10:12
茂木健一郎 @kenichiromogi

てか(8)ヴィトゲンシュタインなんか、大学を出たあと数年間も山ごもりして、小学校の先生をして、教授になったのにやってられねえとやめてしまって、また籠もる。そんなへんなやつじゃないと、言語論的転回はできない。つまり、天才は制御不能である。だから、うまくいく保証もない。

2011-09-05 07:11:28
茂木健一郎 @kenichiromogi

てか(9)制御不能な天才をかろうじて特徴づけるものは、「愛」だろう。それは、自己顕示欲とは違う。「愛」は自分を離れないと成立し得ないからだ。無限の絶対者が受肉したというキリスト教のフィクションが、一つの天才論としてわれわれの前に立ちはだかる。

2011-09-05 07:12:53
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