@shinjike 勿論、ライプニッツにdispositionや傾向性がないと言いたいわけじゃないですが……。ライプニッツは、比較的色んな意味で使いますよね。『形而上学叙説』では神の経綸、『人間知性新論』では、記述の配置、自然の配置、「心身結合の~」ではアニマルエコノミー。
2011-08-25 19:11:06@shinjike それは、当時としては、エコノミーという語の一般的な用法だったと思います。私が引っかかっていたのはむしろ、なぜデカルトは逆にエコノミーという語を使わないのか、ということです(勿論、精査した訳ではないので、探せばあるのかもしれませんが)。
2011-08-25 19:17:25@shinjike それで、大橋さんの論文を読んで、デカルトはすぐ後の人ならエコノミーと呼ぶところをディスポジションと呼んでいたのだ、ということに気づいた訳です。中世において、oikonomiaは一旦影を潜めてdispensatio、dispositioに取って代わられます。
2011-08-25 19:21:19cf. ディスペンセーション主義 http://goo.gl/E2l01
「この名称の由来は、救済史における一連の「dispensation(経綸、天啓法)」(ギリシア語oikonomiaに由来する。)についての理解から来ている。」
- 「dispensation=経綸(けいりん)」とは、国家の秩序を整えること。
@shinjike ところが近代になると、私達がよく知るように、エコノミーが復権してくるわけですね。おそらく、デカルトはそのエコノミーの復権の直前に位置していたのではないかと推測されます。
2011-08-25 19:24:47@sskyt なるほど~。デカルト~ライプニッツの間で何が起こったのか、ライプニッツがエコノミーを使いだしたのはなんでか、少し気になりました。丁寧なリプライ、どうもありがとうございました。
2011-08-25 19:44:47dispositioとὀικονομίαが繋がらない私.どっちかと言うとδιάθεσιςと繋がる.読んでる本のせいだけど.
2011-08-25 20:04:18@shinjike ひとつ言い添えますと、oikonomiaは中世で一旦後景へ退いたのですが、修辞学の伝統の中で細々と生き残っていくことになります。ですから、ひょっとしたら、エコノミーの復権に、修辞学が関わっているのかもしれません。
2011-08-25 20:34:29偽ロンギノスの『崇高について』にも、オイコノミアの話が出てきますよね。オイコノミアが論の全体を秩序付けるのに対して、崇高なものはそれを粉砕するみたいな。
2011-08-25 23:15:55@menkyak ゴクレニウスのdispensatio邦訳プロジェクトは、結合文字のおかげで早くも暗礁に乗りかかっていました。これで何とか解読できそうです。
2011-08-26 20:21:40@sskyt なるほど、やはり中世由来でしたか。habitusは、英語ではdispositionと訳されますが、ジルソンの辞典では、habitus et dispositioで出ています。現代ではdispositionというところは、当時はhabitusだった。諸関係が難しい。
2011-08-25 19:33:50@menkyak dianome=配分、分配? oikonomiaを摂理と訳すこともあるけど、dispositio,dispensatioのルートと同じくらい、providentiaのルートも重要なのでしょうね。自然権が合流する契機にもなったんじゃないかな。
2011-08-26 20:36:46@menkyak 問題はどの部分がオイコノミアに流入し(あるいはそこから流出し)、どの部分が関係ないのか、ということですね。例えば、dispositio=oikonomia/diathesisだとして、後ろの二つ同士は関係あるのか。当然、オイコノミア概念にも外延はある訳だし。
2011-08-26 23:16:29