小竜景光 来歴まとめ 新情報あり!~Twitter集合知がやってくれました
- sayonosuke
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小竜景光の旧主、山田浅右衛門にばかり目が行ってたけどよくよくみたら中村覚太夫(八太夫知剛)からってすごいじゃないですか。 『諸家名剣集』や光徳刀絵の『中村本』持ってた人だよ。 今頭の中で小竜景光に物知り属性がついた。
2021-11-27 22:34:16あっ、中村覚太夫が八太夫知剛で『諸家名剣集』を持っている云々のソースは立道惠子「東京国立博物館所蔵『諸家名剣集』について」という論文です。 ci.nii.ac.jp/naid/400197633…
2021-11-28 17:56:20小竜景光の持ち主だった代官・中村八太夫は、この↓中村知剛でよいのでしょうか? 1747年生まれです。 dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid…
2021-11-28 16:58:31@sayonosuke 多分その人だと思います。 中村八太夫知剛が刀剣のほうでいう中村覚太夫だという証明をしているのは桑原羊次郎『日本装剣金工の研究』の「中村覺太夫と同姓八太夫」ほか二つの論文だそうです。が、すみません、まだ読んでいません😅 dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid…
2021-11-28 17:50:42@sayonosuke ただGoogleブックスでチラ見すると寛政譜のその文がまるまる引用されてるみたいなので…😅💦 books.google.co.jp/books?redir_es…
2021-11-28 17:51:38@kirik_nya ありがとうございます! 享年97歳って、当時としてはめちゃくちゃ長生きですね。 1843年没、になるのでしょうか。小竜景光が山田浅右衛門に渡ったのが1846年なので、辻褄は合いますね。
2021-11-28 17:55:31@sayonosuke ええ実は、私の手元にあるMuseum 642号の立道 惠子「東京国立博物館所蔵『諸家名剣集』について」という情報源だと1840年没と。だから「多分」…😅💦 どこで誤差が生じているのかは『日本装剣金工の研究』を要確認なのです。中途半端すみません。
2021-11-28 18:04:50中村覚太夫が中村八太夫知剛だという考察の桑原羊次郎『日本装剣金工の研究』読んできました。 結論をいえば確定まで至らず「ほぼ確定」というところ。(続 twitter.com/sayonosuke/sta…
2021-12-01 22:23:52覚太夫は幕臣だというがその名は幕府の文書に全く載っていない。 八太夫のほうは関東代官の重要な人だったのでさまざまな資料があり、墓も残っている。墓銘には「俗名 中村八太夫 享年九十七 天保十四癸卯三月二日卒」とある。(続
2021-12-01 22:25:02で、どちらも同じ時期に生きて信家鍔の大収集家なのは共通している。このくらいすごいコレクターが別々にいたとは考えにくいので、桑原羊次郎氏曰く覚太夫という名が誤りで八太夫が本当なのではないかと。 昭和19年の古い本なのですが桑原氏慎重で、丁寧に傍証を積み上げてます。面白かったです。(続
2021-12-01 22:27:32そもそも中村覚太夫という名がどこから出ているかというと『中村覚太夫信家鐔集』を刊行した秋山久作氏がそう書いているのだそうで。 秋山氏が「刀剣会誌」に紹介した逸話に(続
2021-12-01 22:28:36山内家の土佐藩山内家の殿様とその家来の中西武五郎が鍔の愛好家だったのだが、中西が銀座を散歩しているときにたまたま素晴らしい信家の鐔を指料につけている人をみかけ恍惚として尾行していったら大コレクターの中村覚太夫で、その鐔は山内家に譲られた…というのがあって(続
2021-12-01 22:29:48桑原氏はもしかしたら秋山氏が山内家の伝来資料か何かに「中村覚太夫」の名をみて、それが誤伝だったのではと推測しています。
2021-12-01 22:31:58まあ最初に書いたように確定材料はないのですけど、同じ人物の可能性が高いというのは個人的には納得できました。 細川侯爵家にも中村知剛旧蔵の信家鍔の名品があるそうです(この論が書かれた頃)。
2021-12-01 22:38:38そういえばこの本からの情報ではないけど、光徳刀絵図の慶長五年本や『中村覚太夫信家鐔集』の拓本や『諸家名剣集』には《中村匨》という印判が押してあるそうですよ。匨=蔵だから中村蔵。 フルネームのはんこにしてくれればよかったのにw
2021-12-01 22:57:52八太夫知剛の墓銘と、安永4年閏12月(1776)数え年の29歳で家を継ぐ寛政譜は合致。 つまり延享4年生まれ、天保14年没(1748~1843)。
2021-12-01 23:18:20@kirik_nya 1843年に97歳で亡くなったなら、生年は1747年にならないでしょうか? 寛政譜と1年ずれるのはなぜでしょう……誤差の範囲だとは思うのですが。 ご紹介いただいた資料、読んでみました! 中村さん、面白い人ですね。コレクションは一代限りと割り切っているあたりが、共感できます。
2021-12-02 23:18:20@sayonosuke うわああ西暦間違ってました… 延享四年って概ね1747年ですね! 墓銘の九十七歳没や寛政譜の二十九歳没は数え年だから 1747(延享4) 誕生 数え1歳 満0歳 1775/1776(安永4) 家嗣 数え29歳 満29歳※ 1843(天保14) 死没 数え97歳 満96歳 ※閏12月、西暦のみ年が明けている
2021-12-03 01:46:14@kirik_nya 安永4年閏12月は、数えでも満でも29歳なのでしょうか?1月生まれならありなのかな。 いえ、私が最初に寛政譜から1748年が生年だと書いたので、それで引きずってしまったかなぁと申し訳なく思っていました。 算数むつかしいです。
2021-12-03 02:06:03@sayonosuke 算数むずかしいです。日本語もむずかしいです。 満って何ぞ…家継いだ時点ではおそらく(今言う)28歳位ですね🙇
2021-12-03 02:17:14