erisogaiの輪るピングドラム考察
簡単に言うと、地震は天災・オウムは人災なわけで、この二つをメインモチーフとして「95年」を括ることで、人々はその時に感じていた終わりなき恐怖にある種の安心を与えられる。物語=慰め、というのは、お母さんが子供に寝物語を聞かせるのをイメージすると、思想に詳しくない人でも感覚わかるはず
2011-09-11 21:02:02天災と人災を「95年」として括る=物語化=慰め。慰めると、根本の原因への責任(オウムへの責任、もちろん天災への責任などない・天罰などではないから)を国家と国民はうやむやにしてしまう。それは絶対にやってはならないことだとわたしは思うから。
2011-09-11 21:04:34村上春樹はあの二つのモチーフを『かえるくん、東京を救う』で神をつかって物語化して、人々に慰めを与え、天災と絡めることによりオウムという人災の責任を拡散・空中分解・うやむやにしてしまった。作家は物語を作るけれど、それで読者を「慰め」てはならない、「救い」「革命」しなきゃいけない
2011-09-11 21:08:16今日の最初のツイートでわたしは村上春樹を読んでも救われない、とつぶやいたのがここで繋がります。つまり、村上春樹は読者を「慰め」るけれど、救いはしない。少なくともわたしは救われない。「慰める」って、とても無責任な行為なんじゃないかな。
2011-09-11 21:09:54幾原監督は紙一重で村上春樹の世界観をすりぬけて、それを覆す構造の作品性だから、その紙一重っぷりがスマート、というつぶやきをしたけれど、だから、春樹がモチーフに登場した時、わたしは幾原作品が「慰め」に傾いてしまったのかと、一瞬落胆したわけだけれど、
2011-09-11 21:14:02しかしじつは監督は今までのようにじつは村上春樹をなぞりながら村上春樹を覆す構造として、かえるくんを作中に出したこの幾原作品は、かえるくんの世界を「革命」するために踏み台として引用したのだとひそかに信じていたりするのだった(勝手に)。
2011-09-11 21:16:21「今日は3月11日の東日本大震災からちょうど半年経ちましたね、原発はまだ収まりません、そして今日は9月11日の世界貿易センタービルのテロの日でもありますね。世界中のみんなが祈りを捧げています。そんな時期に、経産大臣はあのような失言を行った。こんな時こそひとつになろう、日本」
2011-09-11 21:41:40ひとつひとつのモチーフは、ひとつひとつひじょうに大事なものであり、ひとつひとつそれぞれ責任をもって追究せねばならないもの。ひとつひとつに祈りを捧げ、それぞれはそれぞれとして解決すべき。しかしこんな風に「物語化」すると、気持ち悪く受けとめてしまうのはきっとわたしだけではないはず。
2011-09-11 21:43:12松浦寿輝の『鰈』も、東京メトロに乗る物語なんだよねえ。主人公の土岐は永遠にメトロから降りられないっていうストーリーだけど、ピンドラでもそのうち、延々とメトロに乗って闇を延々と進んでいる、っていうシーンが出てきたりしてね…! なんて…
2011-09-11 22:07:37電車=二重性をもつ空間=電車そのもの自体は「移動」「進んでいる」けれど、乗客そのものは動いていない(立ったり座っていたり)。電車は決められている道を進んでいく。つまり、単に乗っているだけだと、あらかじめ決められた運命の先にしか到着できない。
2011-09-11 22:10:15