
子どものシルクロードのイメージって、だいぶあやふやだったな…『歴史を学んで理解した陸のシルクロード』が面白い
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この前賢しらに語っちゃったけど実際子どもの頃のシルクロードのイメージってだいぶあやふやだったな…と思って作った pic.twitter.com/FCC3dDvozV
2021-12-21 21:26:15

これまたちらほらrtされてるんですけど ・こんな長距離移動で利益出るの? →画像にも書いてるけど近郊交易が取引の基盤です 都市一つ移動しただけでも莫大な利益が出ます ・遊牧民から略奪されるだろ 当時のソグド商人は突厥の保護を受けて活動してます あとソグド商人自体私兵を持ってたりします twitter.com/618sp/status/1…
2022-07-31 10:30:53
これはそう。ソグド人が一つの商品を直接遠隔地に運ぶってことはあんまりなくて(朝貢品は除く)、交易においては各地に定住する同族との取引が基盤になっていた。オアシス都市から近場の都市に移動して交易するだけでも困難だったが、そのぶん結構な利益があったらしい
2021-12-19 22:20:45
ちなみに唐代に安定したシルクロード交易が行われたのは李世民さんが西域のオアシス国家を軍事的に支配しユーラシア広域が「天可汗」の名のもとに唐王朝と一体となり物流が動くようになったから…ということを荒川先生が『ユーラシアの交通・交易と唐帝国』に書いている
2021-12-19 22:35:33
望郷太郎でも言ってたけど、ユーラシア大陸って北に行くほど平坦で通行しやすい土地が広がってるから草原ルートが体力的には一番楽なんだよね。でもそこは遊牧民の縄張りという政治的な都合で通行が難しかったんだわな。 twitter.com/618sp/status/1…
2021-12-21 22:51:22
時代違うけど、玄奘(三蔵法師)ってタクラマカン砂漠超えてサマルカンド経由してインド入りしてるから半端じゃない。 twitter.com/618sp/status/1…
2021-12-23 12:52:58
西遊記の三蔵のモデルになった玄奘三蔵が西安〜天竺間の往復に何故17年間も費やしたのか今やっと分かった 遠回りしちゃったからだ pic.twitter.com/6XruVuJeA5
2020-09-23 09:18:12

玄奘のルートは、もう隊商が行き来するくらいに、宿場になるオアシス都市もあり、高昌国王からの紹介状もあるので、各国の王から保護してもらえたり、勉強の許可が得られたんだよな。 それでも、盗賊団に襲われたはず。 また、長安からの密出国なので、こっちからしか無理だったんだろう。 twitter.com/iwaofurusho/st…
2020-09-23 09:50:11
そもそも玄奘は密出国(当時の西突厥と戦争中)だったため。しかも玄奘を助けたのは西突厥とソグド人がだったので(それでも安全とは言い切れない)、往路は天山北路ルートを使った。 twitter.com/iwaofurusho/st…
2020-09-23 13:34:50
微妙に訂正すると、当時唐と対立していたのは東突厥で、西突厥とはむしろ友好関係にありました。玄奘が伊吾でコネを作った高昌王麹文泰は西突厥とも唐(漢人)とも結びつきが強く(隋末の動乱時に流入した大量の漢人を国に住まわせている)、文泰が玄奘の紹介状を書いた西突厥の統葉護可汗も親唐派。 twitter.com/manju1635/stat…
2020-09-25 21:51:24
当時の西域諸国の多くは西突厥に臣従しており、仏教を信仰する国も少なくない。伊吾で麹文泰を介して西突厥の可汗の後ろ盾を得て、すでに確立している交易(移動)ルートの通りに小国を渡り、西域の仏教文化も吸収しながら北インドへ向かう。玄奘の⊂型のルートは至って妥当なルートなんですよね
2020-09-25 21:53:15
玄奘の通った⊂型のルートが妥当なの、たぶん標高図見たらすぐわかると思う。真っ黒になってるのがチベット高原、そのすぐ下あたりの北インドに玄奘の目指した天竺(ヴァルダナ朝)。 pic.twitter.com/tA0ChcN8Dt
2020-09-25 22:15:36

印中間は標高4000mのヒマラヤ山脈があるからパキスタン経由の”平坦な”ルートを使ったのですね。 強引にショートカットして行こうとするのは日本人だけです(*´Д`) twitter.com/iwaofurusho/st…
2020-09-23 13:28:47
@180shanghai シルクロードの地図(画像は1世紀)と重ねると、すでに確立していた比較的安全なルートを利用していたというのがわかる。 twitter.com/180shanghai/st… pic.twitter.com/0BayxZPcDO
2020-09-23 14:06:50

玄奘三蔵(602年 - 664年3月7日)の時代はぎりぎり楼蘭が栄えていて、タクラマカン砂漠もいまほど乾燥していなくて、行き来しやすかっただろう。たくさんの人が行き来していれば、情報を得やすく、遭難の危険が少ない。帰還が絶対に必要なミッションだから、新ルートを開拓する冒険は避けただろうね。
2020-09-23 22:50:30
ま実際には唐代で南側ルート行くのは難しかったんだろうけど、それにしてもインド文化が素直に東アジアに定着しなかった理由がよくわかる逸話。ベトナムあたりで何か文化の断絶がある twitter.com/iwaofurusho/st…
2020-09-24 18:54:45
@180shanghai それは上記よりも遠すぎます。 当時のインドシナやマレー半島は人跡未踏のジャングル地帯ですから突破不可能です。 インド~ネパールもヒマラヤ山脈に引っ掛かるのでやはり史実どおりしかなさそうです。 pic.twitter.com/85TuwhCYrB
2020-09-23 13:48:28


下の図と説明もだいぶ簡潔なので荒川正晴先生の『世界史リブレット オアシス国家とキャラヴァン交易』と『ユーラシアの交通・交易と唐帝国』を読んでください あと地図は森安孝夫先生の『シルクロードと唐帝国』のを参考にしてます
2021-12-21 22:37:06
中華世界の再編とユーラシア東部 4~8世紀 荒川正晴 amazon.co.jp/dp/4000114166/… 漢帝国の崩壊後、さまざまな民族が激しく衝突・接触・融合し、中華世界は新たな中華の型となる隋唐帝国を創り出した。(略)ユーラシアの東部と西部が重なり合う境界地帯を視座に据え、新生中華の全貌を鮮明に描き出す
2021-12-22 10:57:16