『差異と反復』におけるライプニッツ・カント・コーエン/ドゥルーズにおけるカント/ニーチェ生理学とアル中
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ttt_ceinture
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@ox11 スピノザとカントを両立させることの困難はシェリングもそうだけど、まさにドゥルーズの問題。ドゥルーズがどこか楽天的に見えるのは、スピノザ的な神をどこか信じているからだと思う。それが徹底的にカント的であり続けるデリダと道を分かつところ。
2009-12-24 00:15:47![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
@waschmaschine そんなおいしそうな話をしてるんですね(じゅるり)?確かに、構図が派手なわりに平板なイメージはありますね。ロマン主義研究で筆者に暴走されたら読者死にますがw >社会契約論に神話の問題を見て、それをドイツロマン派につなげるところなんて実に明快なんだけど。
2009-12-24 00:16:20![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
@ox11 社会契約論に神話の問題を見るのは、わりと誰でもやりそうだけど、あんまり文献なくて。それとも僕が不勉強なだけかな? アーレントの「始まり」の問題なんて、まさに神話の問題なんだけどね。
2009-12-24 00:21:01![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
ドゥルーズはカント的な理念をスピノザ的な神に重ね合わせる。ライプニッツ的なharmonyを批判して不協和であることを強調しても、何かしらの協和であることには変わりない。RT @ox11:RT @waschmaschine: スピノザとカントを両立させることの困難..
2009-12-24 00:27:04![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
@Yonus_Mendox Le pliの最後の部分だけです。基本的にはあの本はライプニッツ礼賛の本ですよ。
2009-12-24 00:36:07![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
@waschmaschine これですね L'Odyssée de la conscience dans la dernière philosophie de Schelling, Paris : Alcan, 1933; Paris : L'Harmattan, 2005.
2009-12-24 00:33:07![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
@waschmaschine それと、楽天性というのは少し違和があって、むしろ「普遍数学」をその崩壊後になお追求しているゆえとみます。今読むと無理がある本ながら、なにげに無視できないのが次に挙げる書物
2009-12-24 00:36:15![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
@waschmaschine Jules Vuillemin, 'L'Héritage Kantienne et la révolution copernicienne: Fichte - Cohen - Heidegger', (1954)
2009-12-24 00:37:08![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
@Yonus_Mendox 連投失礼。理論的構成を知りたいのでしたら、『意味の論理学』中のライプニッツが出てくるところをご覧下さい。ニーチェとライプニッツが対比されてます。まあ、ニーチェについては明らかに良く読み込みすぎだけどねw
2009-12-24 00:38:22![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
@Yonus_Mendox @waschmaschine ドゥルーズたん、カントのことも褒め過ぎてますね。「理念を意味の備給源、論理学の要として哲学した最初の人はカントだ」とか言ってるとこらへんとか。
2009-12-24 00:41:26![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
@yishioka @ox11 お二人ともよいツッコミありがとうございます! アーレントにおける事実の扱い、ドゥルーズの楽天性、どちらも議論してみたいお題ですが、時間がなく..。書誌情報にも感謝です! この続きはまた今度よろしくお願いします。寝床より愛をこめてw
2009-12-24 01:23:56![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
@ox11 その種の「過大評価」も、先程挙げたJules Vuilleminの本など、まだ研究があまり進んでいなかった時点における、フランスでの「ポストカント派の哲学者」に対する期待ゆえだと思います。
2009-12-24 00:45:52![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
@yishioka なるほど。ありがとうございます。これは質問なのですが、先ほど挙げていただいた文献が書かれた当時のフランスにおけるポストカント哲学研究とハイデッガー受容とはどのような関係にあったのでしょうか。タイトルを見る限り両者が平行に進んでいたのかと邪推したのですが。
2009-12-24 00:52:33![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
@ox11 ドゥルーズにとっては、デカルトやスピノザの注釈で知られる哲学史家ゲルーの、第二次大戦前のマイモン論・フィヒテ論が念頭にあったと思われます。推測ですが、ゲルーと取り組みながらカントについて考えていたのではないでしょうか。
2009-12-24 01:01:06![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
@ox11 また、フランスではしばらくの間ハイデガーのDaseinがréalité humaineと訳されていた問題があり、Vuilleminの本はそれが改まるかどうかという時期のものです。Vuilleminはその後むしろ分析哲学に進み、ハイデガーなどから離れるのですが(続く)
2009-12-24 01:05:41![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
@yishioka 見当違いの質問にご丁寧にお答えいただきありがとうございます。確かにドゥルーズの脚注にはゲルーの名が散見されますね。そうとは知らずに以前ゲルーが書いたカント論を読んだことがありますが、内容は忘れてしまいました。いまいちど確認してみます。
2009-12-24 01:07:48![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
@ox11 そんな彼の『カントの遺産』の粗雑だけど面白い整理は、フィヒテが弁証論、コーエンが分析論、ハイデガーが感性論を梃子に、カント体系の困難に取り組んだという指摘です。その通りといえばその通りなんですが、この三者をまとめて考えようとする力技。
2009-12-24 01:09:08![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
@ox11 瀬戸一夫の『コペルニクス的転回の哲学』を読んだ時、ドゥルーズのカント論の関心がどのあたりにあったのか、なんとなくわかった気になりました(たぶんあやふやな理解)
2009-12-24 01:11:25![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
@ox11 おやすみなさい。ハイデガーを感性論でまとめる部分がわからなくて当然です。だから粗雑なのですw
2009-12-24 01:43:14