うーん、そういうことはあると思うけど、それだと「バナナでも武器になる」みたいな話になってしまいそう。 QT: @hitsujiwool ある命題では傷つかないのに、論理的推論を重ねると傷つく命題になる状況がありうることが示されれば、論理は人を傷つけることになる。
2010-05-07 16:26:42@at_akada そういう「いつでも属性批判に主張をスライドさせてしまう人」とは、気づき次第普段の評価とはべつにinteractionを早めに打ち切って聞き流した方が、お互い傷つきにくいと言えるのですが、まあ理想は「属性批判は誰もが控える」ですね。ユートピアかでぃすとぴあ。
2010-05-07 16:27:27@at_akada ミル『自由論』前半に、宗教的ドグマがいかに自由な議論を阻害してきたか、という話がありますが、なんだかまだすっきりしてません。論理的思弁が政治的意思決定の表象としても機能してしまう瞬間はつねにあり、それは訓練してもなかなか貫徹できない。
2010-05-07 16:37:02正確には「正しいのに傷つく」ではなく「正しいから傷つく」であって、これは「根も葉もない嘘をふりまかれて傷つく」とは別のレベルなのか。
2010-05-07 16:37:45.@at_akada 何というか、論理それ自体のシステムの中で論争するならそれでいいんですが、体面なり信条なりの固持や一貫性と言ったべつのゲームを個々人勝手に駆動していて、それらが(分離可能なはずの)論理的対話のリザルトによって揺らいだり損なわれたりする、と信じているからでは。
2010-05-07 16:41:56「論理的だけどひどい」のパラドックスの改良版を思いついた。「事実として受け入れている内容であり、論理的に推論可能なことであれば、認知内容に変化を与えないし、従って感情が動くはずがない。にもかかわらずなぜ傷つくのか」
2010-05-07 16:42:02@hitsujiwool @tricken どちらの言われていることもひとつの解決の可能性ではあると思うんですが、とりあえず、疑問の形で定式化してみています。
2010-05-07 16:52:24論理それ自体で人を傷つけることはできなくて、人を傷つけるのはあくまで行為、という立場をとるならば、「あなたの存在価値はない」という論証を本で読んでも傷つかないということになる。本当かなー。
2010-05-07 16:53:45@at_akada 精神分析だとそれ「防衛」とか「否認」あたりになりますかね。精神分析は悪くすると下衆の勘ぐりなんですが、人のあり方を自分を創ったり壊したりするシステム、ドゥルーズだと「機械」?と見る。だからある作動がうまくいっても、他の仕組みがそれを邪魔するということがある。
2010-05-07 16:56:42@at_akada 論理学的に云うと、フロイトが始めた精神分析は問題はあると思うのですけどもね。でもまあ裁ききれないものを論理学とはちがう論理の道具を用いてなんとかほぐそうとしていたのではないかと。ラカンやドゥルーズも苦労していますけども。
2010-05-07 17:00:53.@ishikawakz 防衛だという話になると、自分でも信じたくないことを指摘されたからつらいって感じなんですよね。うーんそういう気もしますが、難しいですね
2010-05-07 17:05:00@at_akada 確かにね。ただある論理を受け入れたら生きられなくなる「気」がするってのはあるかなあって。だから機械がウィルスを受け入れないとかと似てるんじゃないか。ウィルスが中の言葉を書き換えるみたいな。例えちがうかもしらんけど。
2010-05-07 17:10:14ある命題をめぐる論理の系から、二通り以上の含意を受け取ってしまった場合、ある提案者の命題がたった一通りの解釈として発言して(従って、傷つくと想定していなかった)としても、受け取る側ではべつの含意の方も想起する(その中には、受け取る側が傷つきうる解釈もある)、とか。
2010-05-07 16:54:19どんなに論理的な記述も、「同時に」(この「同時に」重要)恣意的な解釈を付け加えることは可能であり、したがって事実のみの指摘も個人的中傷を狙ったものと捉えられる可能性はある。単一の意味の系を記述するための一対一対応の記述を読めるのは、その約束を知っている人だけ。
2010-05-07 16:59:42なんらかの分野で、意味が(おおむね)一対一対応するような語彙・命題・記述の系に慣れ親しみ、かつ、未知の分野の記述(日常会話含む)に対しても慎重にその意味の系を最大限好意的に仮定することの生産性を知っている人。これができれば、被害妄想にも陥りにくい。別に学問でなくてよい。
2010-05-07 17:05:21@at_akada 認知的不協和理論で考えるといいのかも。ある命題を受け入れた時に、それらが今後自分の意思決定および行為にまで重大な転回を与えかねない場合、その苦しさゆえになんとか否認しようとする(そうすることで、問題を先送りにすることができる)。命題だけの話で終わらなくなる。
2010-05-07 17:09:38とりあえず「そんなことを言う行為に傷つく(行為説)」「認めたくないことを認めざるをえなくなって傷つく(認知説)」と、あと複合説があるのかな。
2010-05-07 17:13:21@hitsujiwool @at_akada 論理は人を傷つけるか問題、 論理的に話をしていくためには相互に価値観を洗い出す作業が必要になるのだが、価値観を論理的に整理する作業そのものが暴力的なんじゃないかな。
2010-05-07 17:15:55@hitsujiwool @at_akada トゥールミンモデルで整理できる気がする。どのような主張であれ根拠を遡行すると本質的に無根拠なので、自分の主張には根拠があると思っている人は傷つくんじゃないかな。
2010-05-07 17:18:35@at_akada 認知が転換した後の「過去の行為の重み」ないし「未来の推奨行為の重み」、或いは両方が「命題を否認したいという欲望」を生むから、というのが僕の考える複合説の一パターンです。「んなこといわれても、今更どうしろってんだ。私に生き方を変えろって!?」みたいなのが典型。
2010-05-07 17:21:39正しい内容の侮辱の方が間違った内容の侮辱よりも効果的であるがゆえに、論理的に妥当な発言の方がより傷つくのである、という説も考えられる(行為と認知の複合説)。この場合はあくまで侮辱に怒っているのだが、その内容も関係する。
2010-05-07 17:23:08