@at_akada なるほど、そうかも。「命題」と「行為」が相互連関してるものの、原因はあくまで過去に信じていた命題が新しい認知からスタートしてる、と整理した上で、改めて僕の話したものを「認知説」とします。/行為によって傷つくのは、第三者の認知がそこで変わるかが大きく関わりそう。
2010-05-07 17:27:53.@tricken ああ、そうだ。「体面」などを気にする場合は、どっちかというと行為に怒っているし、第3者が関係しますね。
2010-05-07 17:29:48「論理的だけどひどい」の問題というのはつまるところ、かつて飯田先生が「演繹と換言」で論じていたような、演繹的推論のもつ二面性――推論の各ステップは明白なのに、それが我々の認識を増大させるようにみえる――をどうやって両立させるのかという問題じゃないのか、と一瞬思いましたが……
2010-05-07 19:58:10「論理的だけどひどい」に関しては、認知説や行為説(あるいはその複合)によって説明できそう、という話が出ていますが、問題はこっちのケース。QT @hitsujiwool: 同僚にも聞いたら「相手の批判が論理的に正しい、まさにそれゆえに、(プライド)が傷つく」というお話でした。
2010-05-07 22:29:35「相手の批判が論理的に正しい、まさにそれゆえに、(プライド)が傷つく」。こういう状況は確かに想像可能だが、一体ここでは何がおきているのか。なにゆえ「論理的に正しい」がゆえに「プライドが傷つく」のか。大きく分けて二種類の説明が考えられる。
2010-05-07 22:30:37(a)【批判が論理的に正しいものであるがゆえに、その批判を受け入れざるを得ないから】。しかしここで、なぜ「プライドが傷つく」のだろうか。自分が批判されるような状況が明らかになったからだろうか。しかしそれだと「論理的に正しいがゆえにプライドが傷つく」とはいえない。
2010-05-07 22:33:00どんな仕方であれ、自分が批判されてしかるべきことが明らかになれば、(多かれ少なかれ)傷つくだろう。しかしそれは「論理的に正しいがゆえに」ではなく、単純に批判されること自体がつらいのである。
2010-05-07 22:34:13論理的に正しい批判にとって本質的なのは、それを受け入れることが(他のどのような仕方で批判されることにもまして)強制力をともなう、という点である。特に傷つかない批判というのは、多かれ少なかれ、自分でその批判が妥当でないと感じているからこそ傷つかないのであり、
2010-05-07 22:35:25(b)【自分では論理的に正しい批判へと思い至らなかったから】。この場合、自分の推論能力の低さが明らかになったことに対してプライドが傷ついていると考えることができる。
2010-05-07 22:38:44(1)批判者が被批判者の知らない(かつ、被批判者が受け入れ可能な)事実を持っており、それら[被批判者が認識していない事実]+[被批判者が認識している事実]+[論理]によって、批判が帰結する場合。
2010-05-07 22:41:50この場合は、単に論理のみによってではなく、それに加えて被批判者が自分の知らない事実を突きつけられることによって批判を受け入れるに至るのであるから、純粋に「論理的に正しいがゆえに」プライドが傷つくとはいえない。
2010-05-07 22:43:33(2)[被批判者が認識している事実]+[論理]のみから、批判が帰結する場合。この場合こそが、まさに「論理的に正しいがゆえに」プライドが傷つくケースだと考えられる。このケースは、次のような例と類比的に考えることができる。
2010-05-07 22:44:48ある公理系について考えている数学者αと数学者βがいるとしよう。αはその公理系から、ある重要な定理を導出したが、βはなにも導出できなかった。このとき、βのプライドは傷つくだろう。
2010-05-07 22:46:28