戊辰戦争北関東戦役の輜重と人足動員
@enumura 大田原は千余の会津軍の攻撃に対して守兵が百足らずというアラモ砦みたいな壮絶なことになって、城と城下が丸焼けになってますからね。落ちなかったのが奇跡です。
2022-09-09 19:15:58@tsukasafumio 『大田原市史』では完全に下手人扱いで引きました(最後のあたり)。気持ちはわかる。 trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U… でも市史で「市中においてひねり殺した」はどうなの。
2022-09-09 19:18:40なるほど、このへんのだんだん兵站線が整ってくる流れか。またそれまでは村が直接軍夫を出していたけど、請負人が出てきてとかそんな話題もあった。 twitter.com/enumura/status…
2022-09-09 19:30:516-10月にかけて、大田原藩から白河方面に十日交替で軍夫を出している例が出てるな(塩谷郡亀梨村、現・高根沢町北高根沢村)。安定した後方になると、雇用期間も伸びるのね。
2022-09-09 14:05:37『死地に赴く戦士の胸中』 ameblo.jp/itaru-ohyama/e… やはり大山氏のブログだった。三斗小屋の戦い、館林藩兵と羊羹のエピソード。
2022-09-09 22:33:54行軍中も白河羊羹食べてた。「(前略)途中見晴らし好き峠上に、一番隊々兵等、三々伍々岩角に腰を掛け、酒党は瓢酒に渇を醫し、甘党は白河羊羹に舌鼓を打ち、下野の原野を一眸の裡に集めて、隊長語り、隊兵談じ、互いに打ち興じ休憩し居たる折柄(後略)」 dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid…
2022-09-09 22:49:50菊池勇夫「秋田戦争と「百姓迷惑」」にて、村に課せられた軍用役が、一回が一日で終わらない例が頻発したことが特記されていた。やはり単発の近郊日帰り勤務が前提らしい。 twitter.com/enumura/status…
2022-09-14 13:37:374月17-18日にかけて芳賀郡若旅村(現・真岡市中村)で旧幕軍別動隊に徴発された軍夫が、20日になっても戻らず(19日に第1次宇都宮戦)、鎮守千度参詣をする騒ぎになったという事例が(夜に無事帰村)。宇都宮までの往復2日あまりでも、想定外の長期という認識なのね。輜重は行軍ごとにリセットか。
2022-09-09 13:09:03大嶽浩良『下野の明治維新』 4/23に南河内で官軍に従った人足が、同日中に戻らず、人手不足のため石橋から宇都宮まで連れていかれたとの事例。4/24夕方に無事帰村。
2022-09-14 13:50:28@enumura 輜重関係ではありませんがこれも興味深かったです。 cir.nii.ac.jp/crid/139085365…
2022-09-14 18:54:55@tsukasafumio うわ、士分従軍者の従者の動員状況、戦場離脱者の原因、死傷、復帰者の統計と、これ戦争記録として貴重なデータ集ですね。
2022-09-14 19:07:14続編も面白い。畑中康博「指揮命令系統から見た秋田藩戊辰戦争 ―参謀・監軍・軍将―」 doi.org/10.20569/00005… 秋田藩の部隊毎に、2人の長州人の監軍が付けられており「(監軍は)戦闘の場面になると軍将さえも通さずに直接秋田藩士たちを動かしたのである」
2022-09-14 19:24:10「秋田藩戊辰戦争とは秋田藩主や軍将たちにとって指揮権のない戦争だったということである」「指揮命令系統から秋田藩戊辰戦争を見ると、新政府にとって必要なのは、戦争を実際に戦う兵士の集団であって、戦闘の場面では瑞主や藩庁組織は全く不要なものだった」
2022-09-14 19:24:33保谷徹「戊辰戦争の軍事史 ―秋田戦争を中心に―」 doi.org/10.20569/00005… 「戦争遂行体制の構築には、既存の軍隊や軍備の改革だけでなく(軍制改革)、民衆徴発を前提とした戦闘員の確保、非戦闘員からなる輻重部隊(軍夫)の確保を必要とした」
2022-09-15 15:00:40「久保田城の手前まで追い詰められた八月三十日、応援に加わっていた長州兵が、人足不足に対する不満を述べたことに対し、記主である茅野は、支配村々が敵地となったため、「詰夫」つまり軍夫が不足していることを吐露している」徴発軍夫による輜重部隊が欠かせないという認識。
2022-09-15 15:01:13軍夫狩り「新政府側、同盟側を問わず、場合によって高額の給金を用意して軍夫を募ったが、戦場に進んで出る者はなかった。東北の戦争では多くの民衆が軍夫として徴発され、市中の若者や山内市中往来の者を見かけ次第、抜身の刀や槍を振り回して脅し、強制的に徴発した」
2022-09-15 15:01:41保谷徹「戊辰戦争と薩摩藩-「薩藩戊辰戦役戦闘史料稿本」を題材に―」『黎明館調査研究報告』33 pref.kagoshima.jp/ab23/reimeikan… 2章「兵站と輜重―小荷駄奉行の役割―」は東山道軍小荷駄奉行・樺山休兵衛の日記より。所属人員表より、一隊が「戦兵70-90名前後、司令・夫卒を含めて一隊は計120-140名程度」
2022-09-15 15:02:37「(非戦闘地域では)宿駅の継送り機能も用いて軍事物資を運んだが、戦地に至ると輜重部隊に必要な軍夫も現地で調達しなければならなかった。新政府から担当を命じられた大名も十分な軍夫調達が難しくなり、薩摩藩なども多額の金銭を用いて軍夫を募集するが、なかなか必要な数が集まらず(以下略)」
2022-09-15 15:03:59「伊地知正治書翰節録」下総岩井戦争4/25より。生け捕られた軍夫のうち負傷者は関宿へ預けて療養、無事なものはそのまま軍夫として使役せよとの指示。捕獲軍夫!
2022-09-15 15:05:52「大迫尚敏子談話」母成峠では輜重部隊が十分に機能せず、孤立した部隊が周辺の牛を撃ち殺して食用にしていたという武勇伝的小ネタ。「こうした薩摩兵の牛肉食はさまざまな記録に残され、なかには人肉食と誤解されたケースなどもあったようだ」
2022-09-15 15:06:35