転生したら岩だったので話は終わりだ(1)

NAGAI。
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帽子男 @alkali_acid

水にはさざめく無数の気配があり、Aさんが岩になる前にはなじみのものだった。 命だ。 一瞬Aさんの心はざわめいた。命は岩の固きを柔らかきに変え、剛きをもろきに変えてしまうと、生まれ変わりの女神は警告していた。

2022-11-23 14:29:10
帽子男 @alkali_acid

けれどもさざめく命の群はあまりにも小さく、あまりにも自分達のことだけで精一杯で、Aさんにちょっかいをかけてきそうになかった。 なのでAさんはやがて安堵し、また心を安らがせ、深淵を抜けてゆく冷たい潮に合わせてさやぐ命の歌を聴きながらとろとろと微睡んだ。

2022-11-23 14:31:03
帽子男 @alkali_acid

どれぐらい経ったか。やがて小さく素早く動く熱と震えと匂いの塊が、そばに近づいて来るのを感じ取った。 Aさんが注意を向けると、それは甲殻と鋏を備えた命で、ふっと人間だったころの記憶をよみがえらせるかたちをしていた。 海老。蝦蛄。 多分そんな何か。

2022-11-23 14:33:20
帽子男 @alkali_acid

母の何度目かの快気祝いに食べた鮨を思い出した。 岩になった今は二度と味わうこともないだろう。 また少し心がざわめいたがやがて鎮まった。

2022-11-23 14:35:13
帽子男 @alkali_acid

Aさんは岩らしくじっとしていた。海老だか蝦蛄だかはどこかへ去っていった。熱を求めているのだろう。熱がなければ暗く冷たい淵で命が長らえるのは難しい。 Aさんは内側に灼熱を隠していたし、それは虚空ではいざ知らずこの水底の時間の流れで言えば永遠と言えるほどに燃え盛るほどだから、

2022-11-23 14:37:42
帽子男 @alkali_acid

与えてあげてもよかったが、しかしそうはしなかった。 人間だったころ猫や小鳥をついかわいがってしまうような命への親しみは、岩となった今は薄れていたし、蘇らせるつもりもなかった。

2022-11-23 14:38:41
帽子男 @alkali_acid

ただ静かに水底の命が生まれ朽ちてゆく中で、奏でる歌と踊りを心に留めるだけだった。 それでも水底にも大きな変化はあり、溝全体が鳴動し、崖が崩落しておおいかぶさることもあったし、熱した噴流が下から沸いたり、上から冷たい潮が押し寄せてAさんを跳ね飛ばすこともあった。

2022-11-23 14:40:49
帽子男 @alkali_acid

煙突のような無数の岩の柱から熱水が噴き出ている場所もあり、そこにはさまざまな匂いや味が満ちて、虫から棘のある百合のようなものから、魚から、複雑な暮らしが営まれていた。

2022-11-23 14:43:14
帽子男 @alkali_acid

Aさんはそこでもひとつひとつ、命の営みを心に留めながらも、揺り動かされることはなく歌と踊りを見聞きし、あるいは眠って過ごした。 煙突と煙突のちょうど間にひっかかって、屋根のような恰好になったせいか小魚が下で休むようになり、草木に似た何かが繁茂した。

2022-11-23 14:45:09
帽子男 @alkali_acid

より大きな魚や、ほかの生きものもやってきた。 一番大きなのは無数のうねる肢を備えた生きもので蛸とか烏賊とかいう類に違いなかった。 それはAさんに巻き付き、休憩をするのが癖になった。特に迷惑には思わなかった。命のやることだから。

2022-11-23 14:46:55
帽子男 @alkali_acid

しかし追い払ってしまった方がよかったのかもしれない。 なぜなら蛸だか烏賊だかが休憩しているところへ、もっととんでもなく大きな生きものが突っ込んできたのだ。大きな顎を備えた、黒っぽい塊で、ずんぐりした旅客機のような、恐らく魚か何かだろうが。

2022-11-23 14:48:14
帽子男 @alkali_acid

煙突をへし折りながら、巨大魚は烏賊を食べてしまい、一緒にAさんも飲み込んでしまった。 何たることか。Aさんは巨大魚の腹に入ってしまったのだ。 しかし命のやることなので、あまり気にしても仕方がない。

2022-11-23 14:49:38
帽子男 @alkali_acid

巨大魚はAさんを排泄することもなく、胃の中にずっと入れておいた。苦しくはないらしい。それどころか飲み込んだ餌食を押しつぶして消化しやすくするのに便利に使っているようだった。 かくしてAさんは巨大魚に収まったまま水の中を回遊するはめになった。 それはまた長い間。

2022-11-23 14:51:00
帽子男 @alkali_acid

巨大魚も歌い踊った。この種族なりに荒々しく力強く。 水、いや海の中には巨大魚が餌にする多くの生きものがおり、逆に巨大魚を食べようと迫って来るもっと獰猛な生きものもいた。 魚の肉と骨はAさんが外界をうかがい知る邪魔にはならなかったので、激しい闘争のすべてを間近で鑑賞した。

2022-11-23 14:54:10
帽子男 @alkali_acid

海の怪物はそれは多種多様だった。深い裂け目の底からあらわれたものや、Aさんのように天の高みから降りて来たものもあった。 巨大魚にとって生きることは戦いだった。だが巨大魚が目もくれず通り抜ける海底の森、山、沈める船や街には、戦以外の何かもあった。

2022-11-23 14:56:55
帽子男 @alkali_acid

Aさんはただ黙ってすべてを心に留めた。 巨大魚はたいへん長生きをしたが、最後には戦いに負けて死んだ。命の常だ。海の砂漠のような場所に落ちた骸には、死肉食らいが群がり、そしてまたそこに命の集落が生まれた。

2022-11-23 14:58:40
帽子男 @alkali_acid

巨大魚の骨はたやすくは朽ちず、海底において目印となったようで、さまざまな魚群が立ち寄る場所にもなった。 やがて、不思議なものたちが来た。 人間。 に近いようではあったが、緑に煌めく鱗と鰭や鰓も備えていた。

2022-11-23 15:00:28
帽子男 @alkali_acid

彼等は巨大魚の躯のそばに大きな二枚貝の殻で目立たぬ野営地を作り、休息をとった。 そうしてAさんに気付くと、近づいて水かきのある指先を伸ばした。 Aさんは心がざわめくのを覚えた。だからかかわりになるまいと閉じこもり、一切の気配を断った。

2022-11-23 15:02:28
帽子男 @alkali_acid

彼等は何か話し合ったようだった。しかしけっきょくAさんに対する興味を失って、巨大魚の躯に注意を向けた。 そうして彼等なりの営みに戻っていった。 人間に似たこの種族は、これまでにあったどんな命とも違った歌と踊りを持っていた。

2022-11-23 15:04:48
帽子男 @alkali_acid

Aさんは聞くべきか聞くまいか迷ったが、落ち着きが戻るにつれ次第に沁み込んでいった。 海の民、と呼ぶべきか、海の民は人間でいう探検家で科学者で僧侶のような集団のようだった。 巨大魚の骨を一種神聖なものと考え、ここに寺院を建てようと考えているのだった。

2022-11-23 15:06:26
帽子男 @alkali_acid

Aさんは黙ってすべてを見て聞いていた。海の民が岩にもたれたり、周囲にただよったりしながら、北の極と南の極に潜む秘密や、海面より上の世界の謎について語らうのを。 彼等の細工、彼等の建築、彼等の歴史と信仰が集められ語られ究められるのを。

2022-11-23 15:08:36
帽子男 @alkali_acid

海の民はほかにも大洋に住むさまざまな種族とつながりを持ち、争いと商いとを行っていた。 七種の生きた言葉、四種の死んだ言葉、三種の文字があった。 海の民はさまざまな怪物を飼いならし、あるいは屠ることができた。波と潮と泡を操り、魚を牧し、藻を栽えた。

2022-11-23 15:12:36
帽子男 @alkali_acid

生きた珊瑚で壮麗な都を築き、鸚鵡貝の戦車を繰り出した。虚空の尺度ではそうではないが、地上の尺度でいえば長命な種族ではあった。 彼等は海溝のいや底に開いた裂け目からやってきて、やがてこの世界の命運が尽きる日にはまたそこから去ってゆくのだという。信仰なのか真実なのかは定かではない。

2022-11-23 15:15:51
帽子男 @alkali_acid

寺院は随分と栄え、海の民の勢威の及ぶ限り水底のあらゆる文物が集められ、多くの英邁の士を産んだが、ついに一人の神童が生まれた。 この神童は水ばかりか、火にも深い洞察を示し、潮ではなく地の底を流れる溶け煮え滾った岩の流れを識り尽くし御そうとした。

2022-11-23 15:19:37
帽子男 @alkali_acid

海の民の僧侶の誰にも止めえぬほどに早く深く鋭く知恵を巡らせ、己の力、多分魔法と呼ぶべきか科学と呼ぶべきか、魔法が適切だろう。魔法を編み上げた。 神童はほとんどをAさんの上で行ったので、作業の全工程がつぶさに明らかになった。 Aさんは黙っていた。命のやることだ。

2022-11-23 15:21:57
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