戦国末期南奥州の強弓集団・竹貫衆と精兵・水野勘解由左衛門光定の事
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慶長十九年の一月五日は水野勘解由左衛門光定の命日。強弓の精兵として岩城氏の先鋒を勤めた竹貫衆の中で最も弓の腕が立つ者として、南奥州の軍記等にはその名が数多く記されている弓の名手です。残された感状と弓と鏃、そして「一弓院殿万蒙之中居士」という戒名からもその強さの一端が垣間見えます。
2021-01-05 23:14:28岩城氏の強弓集団・竹貫衆を率いた竹貫氏とは
竹貫衆とか水野勘解由とか、何だそれという方への分かり易い説明は過去に描いた此方をどうぞ。 pic.twitter.com/W0bGUodhD8
2022-11-08 23:42:10竹貫氏は現在の福島県古殿町竹貫を本領とした奥州石川氏の一族。当主は代々三河守を称し、石川氏に属していた時代は石川の先達職として別当を持つ等、宗教的側面が史料上多く見られる。
竹貫(たかぬき)氏には面白い経歴があり、古くから竹貫郷一帯を支配していた領主でありながら一大別当勢力を抱えた修験者であるという側面を持っており、代々領主は子に家督を譲ると隠居入道して修験となり、自領にある八幡宮(現在の古殿八幡神社)を守護する習わしが実際にあった事が分かっています。
2019-05-25 23:28:24この八幡宮は前九年の役による安倍氏征伐の際、源頼義・義家父子に従軍した奥州石川氏の祖である源頼遠の子・有光に従った竹貫郷の領主が、頼義・義家が祈誓したという男山八幡(現在の石清水八幡宮)を戦後この地に勧請した事から始まると由緒には記されています。 twitter.com/k_nagae_tkac/s…
2019-05-25 23:33:45康平年間(社伝では康平七年)に八幡宮が建立されその守護が郷主に任された後、源有光が戦功により与えられた石川庄へ土着し正式に石川氏を名乗り始めると、石川総領家の兄弟が竹貫の郷主のもとに入り、その地名から竹貫氏(古来は高貫や鷹貫と書かれる)を名乗って石川氏の一族に列する事となりました。
2019-05-25 23:35:51石川一族時代の竹貫氏はどちらかと言えば石川氏の先達職・竹貫別当としての役割が史料からは目立ち、後に結城白川氏の台頭によって石川領が脅かされ始めると、白河氏の先達・八槻別当との相論という表の領地争いに対して裏の権力争いが、文書から少なくとも五十年は続けられていた事が確認出来ます。
2019-05-25 23:39:01この相論で竹貫別当は幾度と無く檀那と先達職を剥奪され、その度に石川惣家と共に抗議し復帰しましたが、石川氏の力が衰えるとそれも叶わず窮地に立たされました。竹貫氏が岩城氏に麾下した時期はこの頃と重なっており、石川氏から独立した原因の一つである事が考えられます。 twitter.com/k_nagae_tkac/s…
2019-05-25 23:43:03竹貫氏の系図は失われている為 何代目であるかは不明だが、天文年間に当主であった竹貫廣光の頃には、岩城重隆の命で白川結城氏と佐竹氏の講和の仲介役となっていた史料が残されており、既に岩城氏に麾下したものとされる。
岩城氏に属してからの竹貫氏は修験別当の顔からは一転、強弓の精兵を率いた竹貫衆としての活躍を見せ始めます。特に天正年間の竹貫三河守重光が領主であった頃は「猫潜り(ねこくぐり)」と呼ばれる鎧兜をも射斬るように改良された巨大な狩股を武器に、岩城西方衆の旗頭として一陣へと立ち高名しました。
2019-05-25 23:47:51竹貫廣光の子である重光は岩城常隆に重用され、岩城領の西側・西方衆の旗頭として仙道(現在の福島県中通り地域)の戦を中心に活躍した。水野勘解由左衛門光定は竹貫三河守重光の臣であり、この水野氏は竹貫氏の一族とされている。
『白河古事考』巻之五・竹貫 「白河郡の内にて、岩城の菊田郡石川郡と堺ひ、山高く谷間に村落十三村あり、本六村を分ち十三村とす、竹貫村其おや村也 竹貫氏數世是を領す、(略) 天文の頃は、竹貫氏石川には屬せす岩城へ附たり、(略) 竹貫三河守重光はいつも岩城の先手として仙道へ打出でたり」 pic.twitter.com/dQPj0lcoqQ
2023-01-04 23:10:08広瀬典 著『白河古事考』地,堀川古楓堂,昭和2. 国立国会図書館デジタルコレクション
「白河古事考 巻之五」竹貫 (コマ番号47)
『磐城志』巻之三・古墟 「按に竹貫は三坂の南四里に在り、(竹貫三河守)重光時代、三坂の城には小河(小川)越前守【後改三坂】同左馬助居る田村郡の壓將にして、竹貫とは呼應の要地たり。 pic.twitter.com/8E6RNQ1va0
2023-01-04 23:14:53左れば(岩城)常隆より、三坂への書簡中にも竹三(竹貫三河守の略字)談合、竹三へも申理るなどいへる詞、往々見へたれば、两處は西口咽喉の地にして、智謀勇略の將を撰んで置れしこと知るべきなり」 pic.twitter.com/LkfwxyvCDx
2023-01-04 23:17:30岩磐史料刊行会 編『岩磐史料叢書』上巻,岩磐史料刊行会,大正5. 国立国会図書館デジタルコレクション
「磐城志 巻之三」古墟 (コマ番号143)
岩城領の西、三坂(小川)氏が在城する三坂城と竹貫氏が居た竹貫城の側には、岩城の塩や海産物が内陸の仙道地域へと流通する「塩の道」が通っており、街道上の要衝としても重要な役割を担っていた事が分かる。
特に天正十三年の人取橋の戦いにおいては、岩城の一陣であった竹貫衆六百人の兵が頭上に弓を構え一斉にこの狩股を放って伊達軍を切り崩し、窪田十郎によって鬼庭左月斎良直を討ち取った事が南奥の多くの軍記に記されています。ウィキペディアにすら書かれていないけれどもね。 twitter.com/k_nagae_tkac/s…
2019-05-25 23:54:41人取橋の合戦での竹貫衆の活躍は、南奥の軍記等多くの書物に記されている。
『會津四家合考』巻之二・高倉合戰の事 「岩城勢の内、竹貫參河守(竹貫重光)は、猶豫もせず一陣に進んで、己が精兵の手垂共に下知しけるは、敵の正先に進むは、足輕の雜兵なり、必ず表なる者目にな懸けそ。唯繰矢拳に高く差上げ、翅鳥を射る樣に、飽迄引きて一度に放せと、 pic.twitter.com/dq4LciD7gN
2023-01-04 23:35:34前後左右に心を配りて下知したり。本より田舎人なれば、弓の結構箭幹の用意なんどこそ、きらきらしくはあらねども、握りに餘りたる鎌矛弓につく(釻)打つて、猫潜などいふ大狩股の矢束、普通に勝れたるを、矢續早に射出す程の手利共六百餘人、一度にぱつと放ちける矢は、恰も群れ立つ鳥の羽音の如く、
2023-01-04 23:38:00虚空に暫し空鳴して、矢先下りに落懸りければ、甲の鉢・籠手の機會、中る程の所をばためず、ふつと射落しける。之に敵も物怯して、今迄勇み進んだる者共、早背ろ樣になりて見ゆれば、竹貫、すはと下知して、抜連れて切つて懸る。
2023-01-04 23:40:45