独我論と言語と自意識と存在への予感(ネコ)
そんなの当然じゃないですか。。 QT @finalvent: @m_um_u 知っているよ、死ぬ、その死を自分で引き受けるということ。
2011-10-12 13:29:37“@m_um_u: 一言居士しちゃったのならそうと最初から言えばよろしい @finalvent”とかで安定する、スキーム。
2011-10-12 13:29:49ではないよ。“@m_um_u: いっておきますけどわたしの意識はそんな偽装されてませんよ QT @finalvent: デカルト自身は考えていたんだが、デカルト的理性が独我論を超えると、世界と意識がフラットに一元化される。あたかも世界が実在であったかのような前提が偽装される。”
2011-10-12 13:30:34当然じゃないというのが独我論。“@m_um_u: そんなの当然じゃないですか。。 QT @finalvent: @m_um_u 知っているよ、死ぬ、その死を自分で引き受けるということ。”
2011-10-12 13:31:06はぁ、そうですか。ではあなたのいう独我論とやらとそこから連なる理やスキームをこちらに当然としてぶつけてこないでいただきたい QT @finalvent: 当然じゃないというのが独我論。“@m_um_u: そんなの当然じゃないですか。。 QT @finalvent:
2011-10-12 13:31:55結果的にね。“@m_um_u: はぁ、そうですか。ではあなたのいう独我論とやらとそこから連なる理やスキームをこちらに当然としてぶつけてこないでいただきたい QT @finalvent: 当然じゃないというのが独我論。“@m_um_u: そんなの当然じゃないですか。。 QT
2011-10-12 13:33:58この世界の知覚も記憶も他者もそして夢も、みな、語りという仕組みをもっている。大森荘蔵は、ではそれを存在としようとした。
2011-10-12 13:38:43覚醒意識が夢と違うなら。“@womadinai: 夢は時として自然則を無視するから、人はその根っ子の部分において自然と反した衝動を持つ、なんて言えないでしょうか? QT @finalvent デカルトもカントも、知覚と理性の議論の背景に、「夢」の不可解さを持っている。”
2011-10-12 13:43:5470キロの体重の人までしか座れない椅子は、80キロの人には「座れない」ことをアフォードする。ここまでいうと主体が環境を決定しているように見えるが、アフォーダンスはあくまで公共的なものなので、50キロの人に30キロの重りを持って座ってもらえれば、同じアフォードを経験することが可能。
2011-10-12 13:46:384月にもちょっといったけど、言語と論理のみで問い詰めて言ったらどうやっても「わたしが夢のなかに居るのと現実の中にいるのの違いはわからない」「他者の実在はわからない」「わたしが死んだら世界は閉じる」=「セカイとはわたしの認識を中心としているのではないか?」から脱せない
2011-10-12 13:47:53だけど、主体が環境と相互作用することで環境のアフォードが決定されることに代わりはない。このあたりが、ギブスンのいう「公共性」と「主観」の一致、みたいな話か。自然は人間相手に本来的には何もアフォードしてない訳で。
2011-10-12 13:49:10だから、我や他者、世界の根拠をどこに置くのか?ということだけど、オレはそれをあの時点で他者との信頼関係から催される満足(「信」)としたわけ。たとえ他人から見てそれが誤謬であっても、そんなのデカルトがコギト・エルゴ・スムしてんのと同じレベルだよ
2011-10-12 13:49:44だから、当然のように他者の実在や世界の予感というのは幻想というのは分かってるの。その上で、幻想でもいいのでそれをどのように満足に変えていくか?って話であってね。。
2011-10-12 13:51:55なので、挑発的にフックかけてきたのは別にいいんすけど、独我論に連なる意識やらなんやらのスキーム?がオレの知ってる(あるいは予感してる)範囲以上に展開されてないとどうもなぁとは思いますよ
2011-10-12 14:00:45としてもいいんだけど。“@oiroppa: 記号+主体では RT @finalvent: 意識・知覚・記憶は、「語り」のなかで存在する。”
2011-10-12 15:14:39記号=言語を語る=言語ゲーム=「私」 でも、独我は「私」ではない。“@oiroppa: 記号+主体では RT @finalvent: 意識・知覚・記憶は、「語り」のなかで存在する。”
2011-10-12 15:20:03間主観なるものは、独我を超えるものではないく、言語像=言語ゲームとして、「私」がプレイするもの。「私」はそしてぼつねんと宇宙に残される。
2011-10-12 15:23:26他者や世界を「信」の構造とするには逆に「××教」といったまさに超越的に独我をとらえるメタなスキームを導入することになるが、それ自体が欺瞞。このスキームは「信」からは抜け出せない。他者や世界は、ゲームの強度として存在し、強度は意識の状態に比例する。
2011-10-12 15:38:06自殺者の言葉はすべてどこかしらその人が「私」の意思として凌駕しなければならなかった演義として響く。ゲームの強度のなかに「私」が埋没することのまさに倒錯の形態となる。
2011-10-12 15:40:13