@tsuchie88さんが語る工業製品としての原発の寿命と原発と日米原子力事情

 原子力に明るい @tsuchie88さんが、工業製品としての原子力発電所の寿命を皮切りに日米の原子力発電所について語ります。  アメリカの明快な方針とはあまりに対照的に、左翼・推進側に翻弄されてきた日本の原子力行政の実態がよくわかります。  現在政府は、原子力安全庁の創設に力を入れていますが、分離に満足するばかりで無く、きちんとした予算配分と独自人材の育成に力を入れ、実効性のある建設的な原子力行政となることを、反対側も故・高木仁三郎氏のような、行政・電力から一目置かれる、理論的な反原発派の育成を願ってやみません。
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(๑╹◡╹๑) @tsuchie88

日本の原子力規制を考えてみると、40年だといってた「寿命」が50年、60年と外国の事例を元に延長されてきたりするんだけど、それって米国みたいに年限を区切った運転許可みたないな厳密な規制だったのかな、と微妙に思っていたりする

2011-10-17 21:52:55
(๑╹◡╹๑) @tsuchie88

日本の商業用原発は、振興を経産省、規制をその傘下の保安院、研究を旧原研がやってきてて、核サイクルに関しては旧動燃と電力会社の共同出資である原燃、開発は原子炉メーカーと東電・関電・原電(つまり残りの電力会社)が協力してやってきたというのがある

2011-10-17 21:58:41
(๑╹◡╹๑) @tsuchie88

日本原子力発電、通称原電の成り立ちというのは昔ちょっと書いたんだけど、この会社はもともとは国の特殊会社だった電源開発(JPOWER)による、原子力発電参入を阻止するため、民間の九電力会社が共同出資して作ったのが始まりだ(電源開発も出資はしてるが)

2011-10-17 22:02:30

引用者注:原発の運営事業者についての駆け引きは「J-POWER、日本原子力発電設立の経緯」(http://togetter.com/li/123092)も参照

(๑╹◡╹๑) @tsuchie88

電源開発をなぜ電力会社が嫌ったかというと、ちょっと重複になるが、現在の九電力会社はもともとは、戦時統制で強制的に国策特殊法人日本発送電に強制的に合併させられた苦い経験からだ。戦後、九地域に垂直統合的に分割民営化された電力会社が、国策による原子力事業推進を嫌ったところにある

2011-10-17 22:06:23
(๑╹◡╹๑) @tsuchie88

原子力研究機関として設立された、特殊法人日本原子力研究所(所管は文部・通産)や、核サイクル研究開発を行った特殊法人動力炉核燃料開発事業団(通産系)に、電力会社による民間出資があったのもその一例ともいえる

2011-10-17 22:08:49

商用プラントの成り立ちと歴史

(๑╹◡╹๑) @tsuchie88

日本で最初の商用原子炉は、原電の東海発電所である。東海発電所は、イギリスのコールダーホール炉(黒鉛減速炭酸ガス冷却炉:GCR)で、GCRは日本ではこれ1基しか建設されていない。GCRは、当時世界的に見ると最初期に成功した原子炉型式のひとつだったからだ

2011-10-17 22:12:28
(๑╹◡╹๑) @tsuchie88

1970年に、大阪万博にあわせて運転を開始した敦賀原子力発電所1号炉も、日本初の軽水炉であり最初のBWRである。平行して建設が進められた福島第一原子力発電所1号炉(1F-1)もあわせて、ほぼGEによるターンキー建設に近いものだった

2011-10-17 22:22:27
(๑╹◡╹๑) @tsuchie88

敦賀1号と1F-1でBWR-3を、以降のBWR-4を国内メーカーの比率を高める形で建設が進み、初の国産炉といえる形で建設されたのが、BWR-4の島根1号である。より大型のBWR-5建設では再び原電が東海第二発電所(東海発電所と敷地を共用)でGE主体で建設され、1F-5以降国産化

2011-10-17 22:30:23
(๑╹◡╹๑) @tsuchie88

PWRでも、敦賀2号が原子炉格納容器のコンクリート化工法を初めて適用した大型炉となり、以降のPWRはこの形式で建設された。つまり、原電は電力会社とともに、研究開発と技術習得のための原子力コレクターとしての役割を果たしていったわけだ

2011-10-17 22:32:43
(๑╹◡╹๑) @tsuchie88

言い換えれば、原子力発電の研究開発は、東電・関電・原電の三社を中心にメーカーと共同で行われる形となり、既存原子炉の改良というのも、どちらかというとこの三社とメーカーの間で行われ、原子炉規制は推進も担当する通産省が設置認可に的を絞って行われていたようなものだ

2011-10-17 22:35:29
(๑╹◡╹๑) @tsuchie88

原研は、どちらかというと基礎研究と人材供給を、動燃は核サイクル研究と実用化を推進していたわけなので、規制・振興・推進の境界があいまいなまま進められていたように思える

2011-10-17 22:38:06

電力会社・行政・反対派に翻弄され続けた原子力政策

(๑╹◡╹๑) @tsuchie88

1Fの事故以降の反原発運動が、脱原発のための筋道をきちんと運動化できずに、いたずらに原子炉絶対反対や、差別・恐怖感を煽り、一部が極度にセクト化している理由も、従来の反対運動の限界がそのまま再現されているわけで、あまり意外な感じはしていない

2011-10-17 22:44:18
(๑╹◡╹๑) @tsuchie88

経済的にも技術的にも割に合わない原子炉の廃炉が進まなかったのも、行政、電力会社、反対勢力の微妙な力関係が影響していると思う。廃炉研究は90年代から原研を中心に、実験炉の廃止を通じて進められていたが、実際に本格的な廃炉が行われたのは、原電東海発電所が最初だ

2011-10-17 22:49:04
(๑╹◡╹๑) @tsuchie88

東海発電所はGCRであるが、軽水炉では原研機構のふげん(新型転換炉)が初で、予定ではBWRである原電敦賀1号炉が、商業用軽水炉として初の廃炉となるはずだった。しかし、代替となる敦賀3号4号の建設が遅れた(地元自治体や他の原子力事故の影響)こともあるが

2011-10-17 22:52:31
(๑╹◡╹๑) @tsuchie88

2009年に運転を終了する予定だった敦賀1号の運転は、2015年近辺まで延長された。反対運動だけでなく、原子炉解体後の低レベル放射性廃棄物の処分地問題が最終的に解決していないという要因も影響を与えている

2011-10-17 22:54:01
(๑╹◡╹๑) @tsuchie88

つまり、敦賀1号の後には福島第一も廃炉に入ってもよさそうだったはずだ。それを代替するのは、より安全で効率の高い新しい原子炉だったと思うのだけど。政治的な問題解決や、決断を先延ばしにしていき安全よりもイデオロギー対立の道具にしたりしたツケがこの原子力災害の要因だったのではないか

2011-10-17 22:59:03