2011/10/30 蜀漢の軍制に関する議論
- Smiths_Cider
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姜維は諸葛亮よりも遥かに遠く騎兵を飛ばし、戦場の情報を広く集めている。これは、全てを姜維が判断しなくてはならないが故にそうしていた。姜維の大きさは、姜維の目がどれだけ広くを見渡せるかで決まってしまうのだ。
2011-10-30 04:46:21@Jominian それで勝てる人もいるし、実際に項羽も勝つ寸前でした。視界外で勝負しようという相手もそうそういないので、スタイルとしては効率的で正しいです。組織を維持する手間がだいぶ省けますから
2011-10-30 04:45:30@sweets_street 恐らく、狭い範囲では信頼していたと思いますよ。いくら姜維でも、戦場の全てを見る事はできません。大きい範囲では自分で判断しても、目の前の事については各人に任せるしかありません。そうした事については信頼していたでしょう。
2011-10-30 04:43:19@Jominian 諸葛亮の要求は「俺の手足となり、自分の頭で俺の意を理解して動いて、魏を打倒して天下を平定するのに必要な仕事を遂行する」というとてつもなく高い要求ですからね
2011-10-30 04:42:26@Jominian 項羽はそんな感じの人でした。「人の話を聞かない」「人を使えない」と酷評されていますが、視界の届く範囲内で勝つためなら彼ひとりいれば十分だったのです。シビアな軍事や政治の世界で必要ないと判断したことをあえてしようと思う人はいないです
2011-10-30 04:38:07@sweets_street 多分、姜維は諸葛亮が真に必要としていた人材で、何をしたいかを言えば、手段まで頭に思い描き、実行してくれる人間なのです。諸葛亮の言う「忠実にこなす」とはそういう事なのだと思います。ですが、姜維に自分の代わりが務まるとは思わなかったでしょう
2011-10-30 04:36:30@Jominian 諸葛亮の下では頼れる戦友だったから、自分が采配を振るった時に頼りにしようと思ったら、あまりにも動きが悪くて期待はずれでがっかりしたのもあるかもしれないですね
2011-10-30 04:34:58しかし姜維は、下に判断を求める事を放棄し、自分の目に見える場所、手の届く範囲で動かす事に終始した。姜維自身は強かったが、彼の視界の外ではその強さは失われた。だから魏は、姜維は強いが、その理由が姜維だけにあると明確に分かっていた。
2011-10-30 04:31:30@Jominian 諸葛亮が姜維に求めていたのは「俺が大業を成す上で必要な仕事を要求どおりこなしてくれる」ということで、「俺の代わりに大業を成し遂げる」ことではなかったと思うのです。手紙での評価もかいつまんで言えば「仕事ができて真面目だ」ということですしね
2011-10-30 04:31:05@sweets_street そういう点を考慮しても、姜維が信頼したのが、諸葛亮時代に自分と共に中軍を構成した若手指揮官だったというのも有り得る話です。
2011-10-30 04:27:26諸葛亮は、自分の目的を伝えれば、自分の思う通りに動いてくれる人を欲し、そうした人々を使って物事を動かした。こうする事で、広い戦場の全てを自分で見なくとも、全てを自分の意思の通りに運ぶ事ができた。それが常山の蛇と呼ばれる所以だ。中華の用兵の理想を体現したと言える。
2011-10-30 04:24:46@Jominian 蜀における絶対者であり自由に幕僚を選べた諸葛亮と、軍部の第一人者であるに過ぎず、自分と同格で自由にできない人間を使わざるを得なかった姜維の差でしょうね。既存の幕僚が当てにならず、人事も自由にできないという縛りが、姜維一人で戦争させることになったのでしょう
2011-10-30 04:22:27諸葛亮が姜維を非常に高く評価し、自分のシステムの中枢に置きながら、自分の後継者に数えなかった事が、自分の才能、自分の意思だけで全てを動かそうとする姜維に危うさを感じ取った結果なら、諸葛亮マジ慧眼
2011-10-30 04:21:29@sweets_street その頃は諸葛亮の制度が完全には消えていなかったのもありますが、廖化らと自分に隔絶した差があった事が、後の姜維を決めたのでしょう。諸葛亮なら拾い上げ、磨いたのかもしれませんが、姜維は捨てた。結局、彼らは姜維無しでは使えない人材に堕し、蜀は敗北しました
2011-10-30 04:16:07@Jominian 最初は廖化などを使おうとしてましたね。しかし、彼らがあまりにふがいないので「自分一人いれば十分。足手まといはいらない」という結論に至ったのではないでしょうか。しかし、これでは自分のいない戦線では勝てません。また、自分が負けたら総崩れになります
2011-10-30 04:11:43@sweets_street 彼の理想とする軍隊において考えるのは姜維一人で良いので、恐らくその指摘は正しいです。どういう布陣をし、どういう機動を行えば敵を撃破できるかが姜維の頭に描けていて、後はそれを実行するだけなので、指示を聞く人間だけで良い。その弊害が蜀征伐で顕在化しました
2011-10-30 04:05:38@Jominian 僕が姜維と諸葛亮の最大の違いと思うのは、姜維には腹心らしい腹心がいなかったということですね。自ら後輩や部下を引き立てて育てたという話がないんです。彼の構想ではそういう人間は必要なかったんだろうと思っています
2011-10-30 03:59:41@sweets_street 少なくとも軍隊の整備に関しては、姜維は深く関わっていたので、諸葛亮が何をしていたかは分かっていたでしょう。そして、姜維もまた異質で、彼は戦略思想から違っていた。恐らく、姜維の考え自体も異質なので、諸葛亮のやり方とは合わなかったのだと思います。
2011-10-30 03:55:31@Jominian 理想の軍を創り上げるために、自分に権力を集中して、政軍両方で自由な采配を振るうという発想が、姜維にはなかったのではないかと思います。精鋭を揃えて、兵站を整備する以上の発想はできなかったんじゃないかと。諸葛亮の発想が異常なので責めるべきことではないと思いますが
2011-10-30 03:48:53@sweets_street 司馬懿はまだしも、普通の人間では誰であろうと諸葛亮の真似事はできないという事ですね。姜維はそれが分かっていたので、敢えて諸葛亮を捨てたというのを含めて、あの流れはドラマがあります。
2011-10-30 03:42:15@Jominian それを望んだ司馬懿親子の作った晋が個人の人間性と能力に大きく依存した体制だったということと、それゆえにあっけなく崩壊したと言うのは皮肉ですね
2011-10-30 03:38:13@sweets_street 恐らく、五丈原の陣地に残された僅かな文書などから、諸葛亮の強さの一端を垣間見たのでしょう。そして息子たちに、いつか蜀を攻める時が来たら、それを探して我が物とするよう伝えた、と。
2011-10-30 03:32:43