中世軍事史の観点からみた補給に関する調書2

今回は本質へ掘り下げるのよりも概要を重視しました。
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hajimemasite@頑張れない @pn_hajimemasite

いつぞやの補給に関する調書の続きでも書くか

2011-11-11 05:19:41
hajimemasite@頑張れない @pn_hajimemasite

中世期において、移動する軍隊が補給を得る方法は大きく分けて三種類あった。1.補給部隊からの補給。2.通りすぎる町々に物資を集合し、そこで補給を受ける。3.略奪。このどれも長所と欠点があった。

2011-11-11 05:26:03
hajimemasite@頑張れない @pn_hajimemasite

1.は最もオーソドックな補給方であるが、問題は多い。幾つかの問題点は前回のhttp://t.co/ab4mg5u1にて述べたので詳しくは記述しない。しかし、上記で述べていないの問題点も数多く存在した。

2011-11-11 05:30:35
hajimemasite@頑張れない @pn_hajimemasite

もし補給部隊が軍隊と行軍隊列を共有せず、後方から補給のために接近したのならば、補給部隊は随時、敵による襲撃の脅威下にあった。また、補給部隊が追いつくために、主力部隊は行軍の停止を迫られ、その結果、行軍速度は低下した。

2011-11-11 05:33:30
hajimemasite@頑張れない @pn_hajimemasite

もし軍隊自体が補給部隊を隊列内に内包したとしても、問題は発生した。この場合、敵軍による略奪や行軍速度の低下は低かった(それでも補給部隊への攻撃は発生した)ものの、軍隊は補給部隊が運べる以上の日数の戦役は遂行できないことを意味する。

2011-11-11 05:35:51
hajimemasite@頑張れない @pn_hajimemasite

たとえば、二ヶ月分の食料を隊列に内包したい場合、軍はその隊列の最低半数を補給部隊で占めることになった。戦役の期間が伸びれば伸びるほどこの割合は上昇する。そしてこれは、水の補給が潤沢であると考えた場合である。

2011-11-11 05:45:45
hajimemasite@頑張れない @pn_hajimemasite

行軍が早い方であった、リチャード獅子心王の軍隊ですら、半月の行軍では100kmしか進軍することはできなかった。このことより、二ヶ月の行軍での最大進出距離は400kmとの計算が出るが、中世の高度に要塞化された防御線において、その距離は基本達成されない。

2011-11-11 05:50:53
hajimemasite@頑張れない @pn_hajimemasite

二ヶ月分の食料を軍隊が内包していたとしても、軍隊は、補給の懸念から、敵地の奥へとは進軍せず、むしろ、補給線をつなげるため最寄りの要塞へ進軍し、攻略を行った。そのため、最初に随伴した補給部隊が許す日程は、敵要塞への進軍期間と、その要塞の攻略期間となることも少なくなかった。

2011-11-11 05:53:41
hajimemasite@頑張れない @pn_hajimemasite

ここで重要となるのが、中世の防衛システムである、城という建造物である。城は、多目的の軍事拠点であったが、その意味の一つに補給線の要塞化という意味がある。

2011-11-11 05:56:33
hajimemasite@頑張れない @pn_hajimemasite

もし城がなかった場合、敵軍は、自国の土地に入り込み、補給部隊をその地にて捕捉することができる。それが不可能なのはすなわち、補給部隊が逃げ込める城という建造物があるからである。

2011-11-11 05:59:08
hajimemasite@頑張れない @pn_hajimemasite

これは、他国の土地においても同様である。城が自軍の手中にあるかぎり、軍隊の補給上の問題は遙かに軽減した。後方からの補給部隊がほぼ確実たどり着くということは、補給上の戦争においては、勝利したと同意語だと言える。その要因も大きかったため、中世の軍事は城の攻略を主目的とした。

2011-11-11 06:00:51
hajimemasite@頑張れない @pn_hajimemasite

話を戻そう。2.である、通り過ぎる街に補給物資を置く方法である。これは自国内の行軍 この場合も、街だけでなく、城も大きな役割を持った。ただし、これは自国領内でしか通用しない。そのため、攻勢では使用出来ず戦役の初期、および防御戦でそれなりに役立ったと触れるのみにしておく。

2011-11-11 06:05:33
hajimemasite@頑張れない @pn_hajimemasite

追記するとすれば、敵地において、食料を農村から購入することは不可能ではなく、むしろよくあることであった。侵攻軍が十分に金銭を持っていた場合、これは実行された。

2011-11-11 06:13:17
hajimemasite@頑張れない @pn_hajimemasite

これは三重の意味で良い戦略とされた。一つ、自軍の補給も満たす。二つ、敵軍の補給に障害をもたらす。三つ、農村の好意を買い取ることにより、農村に自国を支持させ、そして、敵軍の「自国防衛の為」という大義を地に落とす。この大義については略奪の項でも少し述べる。

2011-11-11 06:15:07
hajimemasite@頑張れない @pn_hajimemasite

そして、3つめの手法である略奪である。略奪は、常時危険を伴った。農村からの反発は必至であったし、略奪部隊は敵の攻撃の標的となった。落ち武者狩りのように、農村に略奪にきた騎士の殺戮は起こった(ただし、これが農村が持つ当然の自衛権であったかは私は知らない)。

2011-11-11 06:19:07
hajimemasite@頑張れない @pn_hajimemasite

略奪部隊が少数であった場合、敵の攻撃によりすぐに壊滅した。その場合、食料だけでなく、貴重な兵力も失う事となった。よって、略奪部隊はある程度の規模を持った。しかし、その場合、敵の主力が略奪部隊に会戦を挑む危険性も大きくあり、その場合、逃げきれはできるものの、食料の確保は覚束なかった

2011-11-11 06:22:58
hajimemasite@頑張れない @pn_hajimemasite

ただし、略奪は敵地で行うのなら良い戦略とされた。これは先にも述べたが、敵の食料を奪い、自軍の食料とするからである。

2011-11-11 06:25:43
hajimemasite@頑張れない @pn_hajimemasite

あえて言うならば、4つ目の手法も存在する。海上補給である。海上補給は手法としては、後方からの補給であると言えたが、その実、補給基地からの補給に近かった。

2011-11-11 06:35:57
hajimemasite@頑張れない @pn_hajimemasite

補給船団は大量の物資を収納でき、補給部隊自体の補給の必要性が小さく、そして陸上部隊よりも遙かに高速であった。海岸でしか行えないという欠点はあったものの、それ以外の面では、補給手段としてはその他の手段よりはるかに上等であった。

2011-11-11 06:39:23
hajimemasite@頑張れない @pn_hajimemasite

補給船団からの補給というのは、補給線がどれほど長くとも、実際に考慮しなければいけないのは、軍隊と海岸線との距離であり、その程度の距離ならば、補給部隊の護衛が可能であるということもあった。しかし、これは陸に限った話ではある。

2011-11-11 06:46:20
hajimemasite@頑張れない @pn_hajimemasite

海に視点を移すと、補給船団は天候に大きく左右され、また、敵艦隊に捕捉される可能性も少なくなかった。1372年に、イングランド軍の補給船団はカスティーリア海軍に捕捉、殲滅されたため、補給を待っていたLa Rochelleの英軍は敗走を余儀なくされた。

2011-11-11 06:49:27
hajimemasite@頑張れない @pn_hajimemasite

結論として、中世で補給的勝利を得ようとする場合、最善の手法は最寄りの城に対する攻城戦を行うことであった。補給が困難でない間に最寄りの城を陥落させ、補給線を要塞化し、さらに敵地奥深くへ進むための橋頭堡とする。それを繰り返す進む事が、中世期の補給の観点から見た場合最善の手であった。

2011-11-11 06:58:47
hajimemasite@頑張れない @pn_hajimemasite

これを証明するとしてよく引用されるのがリチャード獅子心王の戦歴である。彼は生涯にて3戦の会戦を戦い抜いた。しかしながら、彼の戦歴には50戦以上の攻城戦の記録が残っている。

2011-11-11 07:09:04
hajimemasite@頑張れない @pn_hajimemasite

あと、完全に余談な追記だけど、故に攻城戦を行うという行為は、補給線を守るという行為と同等で、故に私は攻城戦を行う、戦略的心理は、ヘンダーソン飛行場を攻略せざるを得なかった米軍の心理と似ていると考えています。

2011-11-11 07:21:39
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