中谷礼仁+畠山直哉「災厄(カタストロフ)の記録と表象──3・11をめぐって」に関するツイート
被災地の写真を撮った理由については「"自身の出生の地(パーソナルヒストリーとしての場所)"として撮らざるを得なかった」。また震災以前(01〜10年)に「なんの気なしに撮っていた」「極めて個人史的な」陸前高田の写真を展示に組み込んだ事についても迷いはなかったとのこと。
2011-11-13 00:36:13これ以上の理由を今日語る事はありませんでした。また、これら陸前高田の写真を展覧会に組み込んだ事に対する賛否の声があることにも触れていました。例えば、フォトジャーナルと何が違うのか、美術館という場所とのギャップ、或いは何故そこまで無感情に被災地を撮れるのだという批判など。
2011-11-13 00:36:17畠山さんもこれら批判についてディスカッションしたかったようでした(結果的にそうならず?)。畠山さん自身、ジャーナリストとの違いを自認してるみたいですが、その違いが造形によるものなのか、物語性に由来するのか、また別の理由なのかはわからなく、また分析することもしないと仰っていました。
2011-11-13 00:36:24ただ、後半中谷氏からのコメントを受けてしっかりと分析していました。それは、「陸前高田の写真=自分にしかできないこと」に対して「それまでの作品=誰にでもできる」という二項対立の枠組みを持ち出し、そのアンフェアネスが観客にとって居心地が悪いのではないか、というもの。
2011-11-13 00:36:30この分析に僕自身はあまりしっくりきませんでした。というのも全くその逆に思えたからです。つまり今までの"芸術家"としての畠山作品は彼にしかできないことで、陸前高田の写真はジャーナリストだろうとアマチュア写真家だろうと誰にでもできることだと僕は思うからです。
2011-11-13 00:36:37その裏づけに、展示では陸前高田の写真にキャプションは一切ありません。彼の母親が亡くなった事や、瓦礫の上に立っている女性が姉であること、流された車が中学の先生のものだということなど、パーソナルな情報は観客に伝わらないような構成になっています。
2011-11-13 00:36:44また別の見解を示したのが鈴木心氏(一人で10分質問してた)。長い話だったのでうまく要約できていないかもしれませんが、畠山さんの過去の作品(等高線やライムヒルズなど)も個人史的な流れを汲んでおり、むしろ今回のトークで陸前高田の写真の話を聞けて解決した(といったところでしょうか?)
2011-11-13 00:36:51パーソナルな写真として一貫しているといった指摘だったと思います。 この見解に従えば、確かに陸前高田の写真に違和感を感じずに観ることは可能でしょう。しかし、畠山氏の「説明を加えず写真を見せる」という手法にはそぐわないように思えます。
2011-11-13 00:36:58個人史的な背景はトークショーや彼の著書「話す写真」などから読み取ることはある程度可能かもしれませんが、そこまで優秀な観者を要求することはいささか無理があります。
2011-11-13 00:37:06ここからは完全に個人的な意見。畠山氏の陸前高田の写真にある種の居心地の悪さを感じるのは、彼のこれまで作品を通して示してきた一貫性を放棄してしまったからのように思えます。
2011-11-13 00:37:13個人的に一貫性の担保は作家として重要な要素だと僕は考えています(転向することで良い結果を生む人もいますが)。陸前高田の写真はある意味で他の被災地写真と変わらず、またある意味で個人史的背景を負い過ぎている。今までの畠山作品と矛盾しているように思える人が多いのではないでしょうか。
2011-11-13 00:37:20@240sesame お疲れ様です。僕が写美で見たときの違和感は「僕は科学者だ」と言っていたのに(確か+81で)あの作品では単なる観察者に見えたことでした。しかし、まさに仮設のようなあの展示から、私事に立ち入るまでの応答責任が果たされたことに感銘を受けます。ありがとうございました
2011-11-13 00:55:42@yusukeyg そういった見方もありますか。出身地であることや親族が被災されていることについての大きな責任感のようなものは感じますね。拙い文章でしたが、レスありがとうございました。
2011-11-13 01:24:27「大自然と比べて圧倒的にちっぽけな人間」という構図を、あまりにも上手く画面に収め切ると、結果的にその自然さえも、平面を使って人間が克服したように見えてしまう逆説。
2011-11-13 01:41:39その人間の営みさえも自然の一部だし、とはいえ防ぎようの無い津波が到来する圧倒的な自然があるのも事実(その自然を人間は再び克服するだろうけど)。そういう卵が先か鶏が先かみたいな循環が浮かび上がってくるのが、個人的に畠山直哉展の面白さなのかな、と昨日行ってみて思った。
2011-11-13 01:47:52その見方を当てはめると、陸前高田の写真だけが他の展示作品のような異様なほど完成した画面には(枚数も多いし、サイズも小さいこともあり)見えなくて、変に浮いてしまって見えたのが、正直な感想。
2011-11-13 01:54:27そもそも震災があったから今回のセレクトになったのだろうし、良い展覧会だと思った。だからこそ、あの展覧会の中で機能する陸前高田の写真は別の方法があったんじゃないか、というところで@240sesameさんの一連のツイートにはかなり同意。
2011-11-13 02:00:16あくまで展覧会としての見方に限ると、自分はそうなってしまう。畠山さんの話を聞くと、またそう簡単に言い切れなくなるだろうし悩ましいところだけど。
2011-11-13 02:11:38@240sesame はじめまして。私は陸前高田の写真を観たとき、畠山さんの初期のつくば学園都市シリーズを思い出しました。有り得ないものが有り得ない場所にある光景。その光景を見つけ、フレーミングするのも制作の一部だと思いますが、今の東北では探さずともそこかしこにある風景です。
2011-11-13 02:38:37@240sesame 故郷を今までの作品と同じメソッドで切り取ること、こじつけかもしれませんが、それを畠山さんは「自分にしかできないこと」とおっしゃったのではないでしょうか。仮にアウトプットされたものがジャーナリストの撮った写真とビジュアルが近しくとも。突然失礼いたしました。
2011-11-13 02:51:20@pokopen_pokopen はじめまして。レスありがとうございます。なるほど。メソッドが過去の作品と近しいものもあると思います。私も陸前高田市の写真の中に、被写体を中心にもってくる写真が数点あったのを見て、等高線シリーズを思い出したのを記憶しています。
2011-11-13 03:02:56@pokopen_pokopen ただ、個人的には震災というファクターが大き過ぎて、見るに耐えないというか、批評不可能なもののように感じてしまうのです。胡散臭い括りになってしまうかもしれませんが「震災写真」というものはどういった手法で成り立つのかが個人的な興味です。
2011-11-13 03:03:30@240sesame なるほど。私は先々週に会社派遣のボランティアで宮城の南三陸に行ってきました。そこで撮った写真は図らずもインパクトがありましたが、ありのままを撮ったことで確かに批評不可能性が表出した気が…。その写真を批評することは、現実を批評することと≒になってしまうかも。
2011-11-13 03:22:21昨日の表象シンポ、深夜に@240sesameさんが連ツイしてらした。かなり的確にまとめられていると思います。ぼくはまだ展示も見ていなかったので、今回のどのように発表されているのか実際見に行くまでは、違和感含めうまく言葉にできない気がします。あと金村さんのトークでお隣だったかも。。
2011-11-13 07:39:50