【#どうする家康】第26回「ぶらり富士遊覧」時代考証担当・平山優氏の解説ツイート

他の回の解説は「時代考証の呟き」タグからどうぞ。
1
K・HIRAYAMA @HIRAYAMAYUUKAIN

死後、急激に問題が浮上することは、現代でもありうる。武田信玄死去の直後、勝頼が重臣内藤昌秀に起請文を与え、互いの関係修復を行っている事例もある。勝頼と内藤が不仲だった可能性もあるが、『甲陽軍鑑』には家督相続直後からの軋轢だとある。ちなみに私婚問題や七将訴訟事件後、三成が家康と協調さていることは指摘されていることは確認済みだよね?対立し敵視し続けていたら、ありえないよね?どうよ?

2023-09-20 23:32:05
陰陽師A @onmyouji00

@HIRAYAMAYUUKAIN ていうか死後にしても早すぎるでしょ! 普通は秀吉が生きてた時からあった可能性を想定するでしょ! それをナイと決めつけるとかどういうこと⁉︎ わけがわからん🤷‍♂️

2023-09-20 22:22:08
K・HIRAYAMA @HIRAYAMAYUUKAIN

それにしても、他者を貶めよう、陥れようと血道をあげるヒトっているんですねぇ。

2023-09-20 23:35:13
K・HIRAYAMA @HIRAYAMAYUUKAIN

秀吉死後、主導権を握れる可能性があった人物は複数いたのだろうと思いますが、やはり家康は上手だなと思いますね。 twitter.com/zendesuwa/stat…

2023-09-20 23:39:05
ゼン 歴史好き @zendesuwa

秀吉がそれだけ大きな存在だったから死後激動の時代になってうまくまとめたのが家康さんだと思ってます twitter.com/HIRAYAMAYUUKAI…

2023-09-20 23:37:04
K・HIRAYAMA @HIRAYAMAYUUKAIN

😆😆😆失脚して立場がなくすり寄った人物が、今度は反乱を起こすんだ😆😆なぜなーぜ?😆 twitter.com/onmyouji00/sta…

2023-09-21 12:02:54
陰陽師A @onmyouji00

@HIRAYAMAYUUKAIN ていうか三成が失脚して立場ないから歩み寄ったってやつじゃないの⁉︎ いいですよ、無理に反論しなくても 時間のムダです!

2023-09-20 23:53:36

(3)石田三成と家康の関係Ⅲ

K・HIRAYAMA @HIRAYAMAYUUKAIN

私は、7月13日に石田三成と徳川家康の関係について、次のようなツィートをしました。「それにしても、調べれば調べるほど、石田三成像は江戸時代以来の虚像(主に悪印象)にまみれていて、事実を反映していないなぁ。そもそも家康を目の敵にしていたり、反目し続けていたなんて事実はまったくない。ずっと協調して豊臣政権を支えようとしている。佐和山隠居後に発生した「家康暗殺計画」の時も、家康を支えようとしているし、三成の息子は秀頼に奉公し在大坂であった。しかも彼は家康と非常に懇意だったと記録にある。家康と三成の決裂の過程は、もっと慎重に検討しなければならないと強く感じています。 #時代考証の呟き」  この文章について、出鱈目だなどの反論が出ていました。別に反論するまでもないことだと思い、放置していたら、うるさく絡まれたので、9月15日に取りあえず参照すべき参考文献を掲げておきました。次のようなものです。「忙しいので放置してたら、誹謗中傷が湧いてて面倒くさいね。まず、現状の石田三成研究として、谷徹也氏編『石田三成』、太田浩司氏編『石田三成』、中野等氏著『石田三成伝』の三著作を見ると、少なくとも秀吉死後までは何ら対立はなく、死後の私婚問題からすれ違いが始まるが、政権運営では協調し続けている。また、三成暗殺未遂事件は、訴訟だという学説が強まっており、家康は三成隠居で事態の収拾を図ったとされる。その後の家康暗殺計画時も、三成は反対の立場だったのではないかと指摘され始めている。問題なのは、前田攻めの計画や、上杉攻めの問題で、大名統制の在り方に政権内部で分裂が発生したことが大きい。ただ秀吉存命であれば、大名に上洛命令を出し、拒否したり動きがおそければただではすまない。豊臣体制の求心力が失われる可能性もあった。上杉攻めは、強引という印象だが、周辺の大名からの訴えもあり(これはさらに要精査)、政権を預かる立場として無視出来なかったとも言える。それぞれの立場や、思惑が交錯して反家康連合が形成される。その核となるのが「内府違いの条々」である。石田三成文書の集成を行っている谷氏によれば、三成と家康の対立は、家康暗殺計画頃までは兆候がないとされる。やはり、その後の政局をよく分析する必要があるのだろう。いまだに軍記物や、幕府編纂物等の影響が強いのだが、豊臣時代の研究は着実に進んでいる。「真田丸」の時よりも進んでいる。なお、私には大坂の陣についての著作もあるよ(『真田信繁』)。」  すると、陰陽師Aという人物から、9月18日・20日に次のような批判を受けた。「平山氏の「三著作を見ると、少なくとも秀吉死後までは何ら対立はなく、死後の私婚問題からすれ違いが始まるが、政権運営では協調し続けている。」という発言から、三著作を読んだけど、中野等氏著『石田三成伝』381ページには秀吉が死んだ半月後の9月2日の史料の説明で「家康と五奉行の間にはすでに懸隔が生じており、」と書かれていた。太田浩司氏編『石田三成』224ページは秀吉が死んだ10日後の史料の説明で「この誓約において、四奉行と対立すると見られていた仮想敵とは徳川家康であった。」と書いていた。谷徹也氏編『石田三成』からは平山氏の発言に関係した文は見当たらなかった。三著作は「少なくとも秀吉死後までは何ら対立はなく、死後の私婚問題からすれ違いが始まる」を意図することは書いていない。これって他人の著作を妄言の根拠にした挙句その著作にはそれを意図する文はない、寧ろ逆のこと書いてねぇか??っていう重大な問題なんだよね!「一知半解の輩こそ、デマを撒き散らすトンデモの括りに他ならない。」は普通に平山氏に返ってくるよな」

2023-09-25 22:46:32
K・HIRAYAMA @HIRAYAMAYUUKAIN

そこで、この議論をしっかりと検証してみたい。私の議論の焦点をもう一度ここに示すと「(三成が)そもそも家康を目の敵にしていたり、反目し続けていた」という事実はなく、「三著作を見ると、少なくとも秀吉死後までは何ら対立はなく、死後の私婚問題からすれ違いが始まるが、政権運営では協調し続けている」という点にあることをまず押さえておきたい。  まず確認しよう。陰陽師Aが指摘した慶長3年9月2日(秀吉死去の半月後)の史料(毛利家臣内藤周竹書状写)の説明についてである。中野等氏は、この史料から「家康と五人の奉行衆との間にはすでに懸隔が生じており、臨終にあたって秀吉が厳命した「大老」と「奉行」との交誼、協力体制はすでに破綻(「もはや相違」)しているとの認識が、毛利家にあったことがわかる」(中野等『石田三成伝』381頁)と説明している。ここで注意すべきは、①家康と五奉行の関係は「懸隔」が生じたことであり、敵対的対立ではないこと、②わざわざ中野氏が「懸隔」(度外れた隔たり)という用語を使用した理由は、意見の対立があったが、それは敵対的対立でないと評価しているからであろうこと、③そもそも「懸隔」に陥った間柄は、家康と「五奉行」であって三成個人だけではないこと、④その認識は毛利家中のものであること、である。

2023-09-25 22:47:08
K・HIRAYAMA @HIRAYAMAYUUKAIN

この9月2日の史料の前提に、8月28日に、五大老の1人毛利輝元が、三成・増田長盛・長束正家・徳善院玄以に起請文を提出し盟約を結んだ動きがある。実をいうと、これが最初の派閥形成の動きであったとの評価がある。水野伍貴氏は、起請文は「秀頼様への逆心」でなかったとしても四奉行に味方することこそが「秀吉様への奉公」に叶うものだと記し、政権での主導権維持を目指したものだと指摘した(水野「合戦に到る豊臣政権内部の動向」太田浩司編『石田三成』223~4頁)。同様の評価は、山本浩樹「石田三成と毛利輝元」(太田編188~189頁)にもある。彼らの目的は、家康が力を持つことを封じ込めるためであった。このことは「五人之奉行と家康半不和之由」(五人の奉行と家康の間柄は不和であるとのこと)と毛利家中では噂されていた。しかし結果は皆さまもご承知の通り、家康と五奉行や毛利輝元との敵対的対立や政権分裂はこの時起きていない。  それでは結果はどうだったか? 9月3日付で五大老・五奉行全員が連署する起請文が作成された(『大日本古文書 浅野家文書』106号)。これは「十人之衆中」が秀頼のために結束することを誓約したもので、「私之遺恨」「徒党」「讒言」などを排除し、十分な情報共有や意思疎通を行って政権運営を行うこととし、意思決定に当たっては「十人之衆中多分ニ付而可相究事」(多数決で決定する)ことが決められた。かくて中野氏が評した「懸隔」は解消されたのである。

2023-09-25 22:47:58
K・HIRAYAMA @HIRAYAMAYUUKAIN

このことは何を意味するだろうか? それは8月28日の三成ら四奉行と毛利の派閥形成や、9月2日の毛利家中の認識たる家康と五奉行との「不和」(中野氏が指摘する「懸隔」)とは、政権運営をめぐる意見の相違と衝突に過ぎず、それらは家康を含む五大老と、三成ら五奉行との調整によって収まったのである。ここでは、意見の相違はあったものの、秀頼のために協調することが大事であるということで落ち着いた。ここから、家康と三成の敵対的対立や常なる反目をただちに読み取ることは、結果からの類推というバイアスによる史料読解に陥る危険性がある。もしそうであるなら、家康と五奉行の敵対的対立、常態的反目と読むべきであろうが、そうではあるまい。  ところで、この「十人之衆中」の起請文はどのような成果を生んだのか? このことについては、中野等氏や山本浩樹氏らとの間では評価が微妙に違うものの、①五大老と五奉行が協調して政権運営を行うこと、②家康のほか、輝元ら五大老のメンバーが政治的意思決定に参画する資格を認められたこと、③「十人之衆中」の枠内に家康を封じ込めたこと、④これで五奉行が政権内での主導権確保を維持しようとしたこと、であろう。

2023-09-25 22:48:29
K・HIRAYAMA @HIRAYAMAYUUKAIN

なお、三成ら五奉行が政権内での主導権確保を急ぎ、家康を警戒したのには理由がある。それは、山本浩樹氏の指摘(太田編・188頁)が重要だ。すなわち、①三成ら五奉行は、秀吉の信任を拠り所に政権参画を実現していたわけで、彼の死はその地位を揺るがしかねぬ事態であったこと、②秀吉の置目、遺言を奉じるだけでは複雑な状況下での政務は出来ないこと、③朝鮮在陣により長く政権中枢から遠ざけられてきた大名たちが帰還後、異議申し立てに及ぶ事態が想定されたこと、である。  そして、秀吉死後の豊臣体制は、実に帰国した大名らの動きによって崩壊の度合いを早めてしまうのであり、家康と三成の関ヶ原合戦も結局はそれに規定されていくのである。なお、家康と三成は、秀頼を奉じ政権運営を円滑に進めるために、その後も協調しあっている。そのことについては、改めて論じたい。

2023-09-25 22:49:19
K・HIRAYAMA @HIRAYAMAYUUKAIN

以上が、私の先行研究と史料から読み取る、秀吉死去直後の家康と三成(五奉行)の関係であるが、如何であろうか? 私は非難されるような、意図的な読解をしているといえるだろうか? 私の主張をここでもう一度繰り返し提示してみよう。「(三成が)そもそも家康を目の敵にしていたり、反目し続けていた」「少なくとも秀吉死後までは何ら対立はなく、死後の私婚問題からすれ違いが始まるが、政権運営では協調し続けている。」 以上の文章は、出鱈目だといえるだろうか? 陰陽師Aなら「対立」はあるじゃないか、と言いそうだが、私の分脈をみれば、私の想定する「対立」とは、「敵対的対立」「恒常的な反目」「命を狙った敵意」などであることは明白であろう。後は、読者諸賢のご判断に委ねたい。

2023-09-25 22:50:36
K・HIRAYAMA @HIRAYAMAYUUKAIN

あ、そうそう、石田三成は、家康の屋敷で談合してるんですよ。宇喜多秀家に書状を送り「家康のところへ早く来て下さい。もうみんな来てますよ。私も、浅野長政も、長束正家も来てます。増田長盛と徳善院玄以は御城の御用で出席できません。この者(手紙を届けた使者)が説明します。はやくはやうおいでください。かしく」って書いてあります。この書状は、7日付なのですが、家康と三成の動きから、慶長3年9月もしくは慶長4年1月と推定されています(石畑匡基「宇喜多秀家と石田三成」太田編・177~8頁)。これは家康と五奉行の打ち合わせです。例の「懸隔」問題解決直後か、私婚問題直前のもので、ちゃんと協調してますよね。一次史料で確認できる珍しい事例ですな。 #時代考証の呟き

2023-09-26 00:10:58

K・HIRAYAMA @HIRAYAMAYUUKAIN

家康と三成との関係について再論。家康と五奉行の「懸隔」が終息した後の状況について紹介しよう。家康の動きを五大老・五奉行(「十人之衆中」)の枠内に封じ込め、合議制を確立した豊臣体制であったが、11月下旬から12月にかけて、朝鮮半島から豊臣軍諸将が帰国したことで、事態は動き出す。家康は、11月に長宗我部元親ら諸大名の屋敷を精力的に訪問しており、これは彼の多数派工作ではないかと指摘されている(水野伍貴「合戦に至る豊臣政権内部の動向」太田編・224頁以下)。なお、この時、五奉行の1人増田長盛屋敷にも訪問しており、これには公家山科言経も同行している。言経の記録をみると生臭い話をしていたようには思えない。

2023-09-26 16:43:12
K・HIRAYAMA @HIRAYAMAYUUKAIN

いっぽう、帰国した諸将は、朝鮮での戦功評価に不満を持ち、その原因を石田三成だと考えていた。とりわけ蔚山城攻防戦での諸将の動きについて報告を受けた秀吉は激怒し、蜂須賀らは処分されたことはよく知られている。12月には、黒田長政が家康重臣井伊直政と起請文を取り交わし、家康への接近を始めている(『井伊直政文書集』51・52号)。家康がどのような多数派工作をしていたかは、まだ不明な点が多いが、他大名側から接近してくる事態も多かったようだ。このような状況下で、家康による私婚問題が起こる。秀吉は死の直前に、五大老間での婚姻は奨励していたが、他の大名同士のそれは禁止しており、縁組みの扱いは秀吉遺命として遵守すべきものとされていた。ところが家康は、伊達政宗を始めとする大名との縁組みを進めており、これが慶長4年1月中旬に問題となる。

2023-09-26 16:43:51
K・HIRAYAMA @HIRAYAMAYUUKAIN

四大老・五奉行は、1月19日に、家康の元へ糾問使を派遣した。ここで石田三成が、1月19日に徳川屋敷を襲撃するという風聞が流れ、これを聞いた加藤清正・福島正則・黒田長政・浅野幸長・細川忠興らが家康警固のため集結したといい、これには大谷吉継も参加したといわれる。ただこの事件については、実在した、もしくは実在した可能性がある事件と考える研究者(外岡慎一郎氏、山本浩樹氏ら)と、事件の実在に懐疑的もしくは否定する研究者(中野等氏、水野伍貴氏ら)で分かれているのが現状である。大河ドラマ「真田丸」では、事件の存在をドラマとして採用したが、はっきり認定できるだけの史料に恵まれていない。なお、現在の私は否定派である。

2023-09-26 16:44:37
K・HIRAYAMA @HIRAYAMAYUUKAIN

さて、家康と四大老・五奉行には大きな溝が出来た。だが、家康は2月5日に九人に宛てて起請文を提出し、今後に遺恨を残さず、慶長3年9月3日付の「十人連判誓紙」を遵守することを誓約したことで修復に向かった。さらに2月29日に前田利家が病身を押して伏見の徳川屋敷を訪問して関係改善が実現した。これは加藤・浅野・細川らの斡旋があったといわれる。これを受けて、宇喜多秀家が家康に、3月8日付で起請文を提出し、利家と家康が協力して秀頼に奉公することを誓約したからには、自分も協力すると約束した。家康も、3月11日は返礼として大坂の前田屋敷を訪問している。この時、利家と家康との間で、大老に結城秀康(家康次男)を加入させることで合意したが、これは結局実現しなかった。

2023-09-26 16:45:06
K・HIRAYAMA @HIRAYAMAYUUKAIN

そして閏3月3日、前田利家が死去する。ここで大坂城における勢力関係が変化する。宇喜多・浅野を始め、加藤・福島・黒田・浅野・細川らは、利家のもとで取りあえずの結束を維持していた。ところが利家の死去に伴い、朝鮮在陣中の戦功問題が噴きだし、石田三成を弾劾する方向で動き出した。そして彼らは、家康に連なる動きを見せ、大坂城は前田方が優勢な場所から、一転して徳川方の拠点へと変化してしまったのである。これは利家亡き後、事態を収拾できるのが家康であるのは、当時衆目の一致するところであったのだから、家康に結びつき、三成を弾劾しようとすることになったのは自然である。そこで三成は、増田・長束・玄以ら三奉行と上杉・毛利・徳川の三大老がいる伏見に移らざるをえなくなった。山本浩樹氏らが指摘(太田編・188頁)したように、朝鮮在陣により長く政権中枢から遠ざけられてきた大名たちが帰還後、異議申し立てに及び、武力行使をも辞さぬ三成弾劾に動いたことで、豊臣体制は大きく揺ぎはじめたといえるだろう。

2023-09-26 16:45:44
K・HIRAYAMA @HIRAYAMAYUUKAIN

この時、いわゆる「石田三成暗殺計画」があったとされていた。かつては、窮地に追い込まれた三成は、佐竹氏らの手引きで大坂を脱出し、何と政敵家康の屋敷に逃げ込んだという。このためさしもの家康も「窮鳥懐に入れば猟師も殺さず」で、加藤・福島らに三成の身柄を引き渡さず、佐和山城に引退させることで決着させたといわれてきた。ところが、この事件の顛末について、笠谷和比古氏の研究で次のような指摘がなされ、通説は修正されることとなった。笠谷氏によると、①三成が伏見に逃れたのは事実であるが、②逃亡先は伏見城内の治部少輔曲輪(石田屋敷)であること、③追ってきた加藤らは城内には入れず対峙することとなり、双方が手詰まりの状況になったこと、④憂慮した安国寺恵瓊が、主君毛利輝元を動かし、家康に事態の収拾を依頼したこと、⑤家康が裁定を下し、三成を隠居させることで決着したこと、であるという(同著『関ヶ原合戦』講談社新書メチエ・1994年)。これを受けて、大河ドラマ「真田丸」では、治部少輔曲輪に入ったことなど、笠谷説を受けた脚本となった。

2023-09-26 16:46:14
K・HIRAYAMA @HIRAYAMAYUUKAIN

その後、いくつかの新研究が出され、①これは三成暗殺ではなく、諸将による訴訟であったこと、②訴訟とは三成への制裁(切腹)と朝鮮陣の再評価であること、③諸将が訴えたのは家康であったこと、④三成は、毛利輝元・上杉景勝の斡旋に期待していたこと、⑤家康と景勝が縁組みを行うことで連携を強めることとし事態の収拾を図ったこと、⑥最終的には、家康の裁定だけでは収まらず、北政所が調停に乗り出し、諸将を鎮めたこと、などが指摘されるようになった(跡部信『豊臣政権の権力構造と天皇』、水野伍貴『秀吉死後の権力闘争と関ヶ原前夜』、谷徹也「石田三成論」同編『石田三成』他)。この他にも、この時、三成、増田らと毛利が組み、諸将と家康と戦う動きがあったとの説もあるが、これについてはなお検討の余地が多い。

2023-09-26 16:46:44