詩人 アルチュール・ランボオ について @Yamakawakenichi

作家 山川健一氏 夜のツイートから、詩人 アルチュール・ランボオ についてをお届け。
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山川健一 @Yamakawakenichi

これから30分ほど、詩人のアルチュール・ランボオについてツイートします。興味のある方はお読みください。

2011-11-15 01:27:51
山川健一 @Yamakawakenichi

学生に講義するために、ランボオを読み返した。ぼくがいちばん好きなのは『イリュミナシオン』に収録されている「出発」という詩だ。小林秀雄は『イリュミナシオン』を『飾画』と訳しているが、今なら『イルミネーション』と訳すところだろう。

2011-11-15 01:40:20
山川健一 @Yamakawakenichi

見飽きた。夢は、どんな風にでも在る。/持ち飽きた。明けて暮れても、いつみても、街々の喧噪だ。/知り飽きた。差押えをくらった命。----ああ、『たわ言』と『まぼろし』の群れ。/出発だ。新しい情と響きとへ。/アルチュール・ランボオ『出発』(小林秀雄訳)

2011-11-15 01:40:33
山川健一 @Yamakawakenichi

『イリュミナシオン』の執筆された時期は、特定することが難しいらしいが、断片的な散文詩が多いことから、ぼくは『地獄の季節』の合間とその後に書かれたのではないかと思ってる。つまり、大雑把に言って『地獄の季節』→『イリュミナシオン』の順番だろうということだ。

2011-11-15 01:40:47
山川健一 @Yamakawakenichi

大学では、小林秀雄の『ランボオŁ』の一部分を朗読して学生に聞かせた。140字のツイッターで長い引用は難しいが、やってみようかな。

2011-11-15 01:42:17
山川健一 @Yamakawakenichi

「……僕が、はじめてランボオに、出くわしたのは、二三歳の春であった。その時、僕は、神田をぶらぶら歩いていた、と書いてもよい。向こうからやって来た見知らぬ男が、いきなり僕を叩きのめしたのである。僕には、何んの準備もなかった」

2011-11-15 01:42:39
山川健一 @Yamakawakenichi

「ある本屋の店頭で、偶然見付けた『地獄の季節』の見すぼらしい豆本に、どんなに烈しい爆薬が仕掛けられているか、僕は夢にも考えてはいなかった」

2011-11-15 01:43:14
山川健一 @Yamakawakenichi

「その豆本は見事に炸裂し、僕は、数年の間、ランボオという事件の渦中にあった。それは確かに事件であった様に思われる。文学とは他人にとって何んであれ、少なくとも、自分にとっては、或る思想、或る観念、いや一つの言葉さえ現実の事件である」

2011-11-15 01:43:59
山川健一 @Yamakawakenichi

「…と、はじめて教えてくれたのは、ランボオだった様にも思われる」(以上引用、小林秀雄『ランボオŁ』)

2011-11-15 01:44:33
山川健一 @Yamakawakenichi

16歳だったぼくにとっても、同様の体験であった。もっとも小林秀雄とちがいフランス語が読めないので、当の小林秀雄の翻訳で読んだのであったが。小林秀雄は虚無とデカダンスの球体としての『悪の華』(ボードレール)に閉じ込められており、ランボオの詩句がそれを叩き壊してくれたわけだ。

2011-11-15 01:47:26
山川健一 @Yamakawakenichi

この間まで中学生だったぼくの場合は逆で、ランボオの名で呼ばれる文学の球体に閉じ込められてしまった気がした。

2011-11-15 01:47:42
山川健一 @Yamakawakenichi

今ランボーを読むのは、3.11以降の自分をランボオの言葉によって逆照射することに他ならない。ランボオはボードレールの象徴詩のバトンを受け継いだわけだが、文学史上初めて「認識」と「行為」について苛烈に考える言葉を紡いだ詩人だった。

2011-11-15 01:48:16
山川健一 @Yamakawakenichi

ランボオにとって「認識」とは黄金の紙に詩を書くことであり、「行為」とは詩作を棄てて南方へ旅立つことだった。「認識」と「行為」についてのもっとわかりやすい例を挙げるならば、三島由紀夫にとっての「認識」とは小説を書くことであり、「行為」とは自決するこだった。

2011-11-15 01:51:52
山川健一 @Yamakawakenichi

ランボオはアデンに行って商人になり、ラクダの隊商を率いて砂漠を横断した。そういう生活を長くつづけ、アビシニア人の美しい女性と暮らしたり、美少年のジャミを伴って旅をしたりする。

2011-11-15 01:52:12
山川健一 @Yamakawakenichi

だが骨肉腫に冒され、マルセイユに戻って脚を切断する。骨肉腫は全身に転移し、痛みに呻いてベッドから転がり落ちると朝まで床をのたうち回るしかなかった。それでもまた旅出ちたいと願い、死の前日、船会社に宛てた「どの便にすればいいのか?」という趣旨の手紙を、妹に口実筆記させている。

2011-11-15 01:59:39
山川健一 @Yamakawakenichi

原発事故が進行中の日本では、多くの表現者が…作家や画家やミュージシャンが「認識」と「行為」に引き裂かれているように見える。あたかもロシア革命に同伴すると言いながら、やがピストル自殺したマヤコフスキーのように。ぼくもそういう大勢いる表現者の中の1人である。

2011-11-15 02:00:03
山川健一 @Yamakawakenichi

文学や音楽といった表現の世界で生きてきた自分が、原発について発言すべきなのかどうか。表現とは「認識」なのであり、反原発のデモに参加したりするのは「行為」である。その間に明瞭に横たわる1本のラインを跨いでもいいのだろうか…。

2011-11-15 02:02:25
山川健一 @Yamakawakenichi

ランボオの「出発」は「出発だ。新しい情と響きとへ」で終わっている。「情」と「響き」は翻訳者によって違う言葉が使われている。ぼくは情けないことに未だにフランス語を読むことができないので何とも言えないのだが、この「情」と「響き」こそはランボオの詩の中核をなす言葉ではないかと思うのだ。

2011-11-15 02:17:57
山川健一 @Yamakawakenichi

ここから先は研究者でもないぼくの私見にすぎない。新しい情けとは、この詩を書き記した十代の頃には想像すらできなかったアビシニア人の恋人や美少年ジャミのことなのではないだろうか。そういう暖かな出会いを求めて俺は詩を棄てるのだ、とランボオは決意を表明しているのではないか。

2011-11-15 02:18:27
山川健一 @Yamakawakenichi

そして「響き」とは、書き記される以前の言語、すなわち音としての言語ということではないだろうか。すると、出発したいと願ったランボオの胸の裡は、決して自暴自棄な気持ちだったのではなく、とてもポジティヴで温かな感情を胸に秘めていたことになる。

2011-11-15 02:18:44
山川健一 @Yamakawakenichi

そして「響き」とは、書き記される以前の言語、すなわち音としての言語ということではないだろうか。すると、出発したいと願ったランボオの胸の裡は、決して自暴自棄な気持ちだったのではなく、とてもポジティヴで温かな感情を胸に秘めていたことになる。

2011-11-15 02:18:44
山川健一 @Yamakawakenichi

すなわち、この詩を書き記した少年ランボオの中では、「認識」と「行為」が溶け合っていた。あるいはそれを溶け合わせるために、彼は出発したのだ。

2011-11-15 02:19:00
山川健一 @Yamakawakenichi

20歳かそこいらで詩を棄て、37歳で死ぬまで、ランボオは兵士、翻訳家、商人など様々な職業に就きながら、ヨーロッパから紅海方面を転々とし、南アラビアのアデンでフランス商人に雇われ、アビシニアのハラールに駐在する。

2011-11-15 02:19:17
山川健一 @Yamakawakenichi

行為者としてのそんな17年があまりに苛烈で最後が悲壮だから、ぼくらはこの天才詩人の「認識」と「行為」の間の膨大な距離に圧倒される。

2011-11-15 02:19:20
山川健一 @Yamakawakenichi

しかし、そうではないのだ。詩を棄てた後のランボオの放浪は、自らの出発の決意が温かでポジティヴなものであったことを証明するためにこそ維持されたのではなかったか。

2011-11-15 02:19:39