山鹿流について

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名無し整備兵 @seibihei

闘戦経ねぇ。大正から昭和初期、日露戦争に勝ったのは「日本独自の武士道」にあるとして、山鹿流等江戸期の兵法の再版が行われたときに、海軍で復刻されたことがあったとか

2011-11-25 01:27:05
名無し整備兵 @seibihei

大正6年に和綴じで復刻された「楠木正成一巻書」が確認されている。この底本は承応3年(1654年)に山鹿素行の序文付きで印刷されたもの。

2011-11-25 01:31:01
名無し整備兵 @seibihei

別の本では、「南木武経」という題のこともある。楠流兵法は寛永から慶安にかけて流行った兵法で、代表的な、というかほぼ唯一の兵法家は由井正雪

2011-11-25 01:34:31
名無し整備兵 @seibihei

「楠不伝」なる楠公の子孫に正雪が弟子入りし、秘伝の宝物と兵法を授かったという触れ込みだが、まあこの辺の話の信頼度はゴニョゴニョ

2011-11-25 01:37:05
名無し整備兵 @seibihei

山鹿流は「中朝事実」に見るように国粋的な思想なので、楠公のような「我が国独自の兵法家であり勤皇家」にはあやかりたかったろう。

2011-11-25 01:42:38
名無し整備兵 @seibihei

さて、もう遅いので寝ます。あと20時間ほどしたら、山鹿流について簡単に。

2011-11-25 01:45:51
名無し整備兵 @seibihei

さて、既に昨日になったころ話した山鹿流陣太鼓・・・じゃなかった山鹿流兵法

2011-11-26 00:55:55
名無し整備兵 @seibihei

元をたどれば、甲州流と呼ばれる兵学が源流となる。これは小幡勘兵衛景憲が江戸初期に編纂した「甲陽軍鑑」まで辿れる。ただし「甲陽軍鑑」は小幡勘兵衛が武田の遺臣に聞き書きしたものとされ、また本人がどの程度加筆したかは明らかではない

2011-11-26 01:01:45
名無し整備兵 @seibihei

甲州流軍学で勝利を得る方策は「武略・智略・計策」であり、これをまとめて「よき軍法」という。一方で、その軍法を実際に生かすためには「よき采配」「よき法度」が必要と説く。

2011-11-26 01:07:26
名無し整備兵 @seibihei

「人は石垣」からの流れとみれば自然ではあるが、「上に立つ者の心得」を強調しすぎるのは、軍事理論そのものとしてはどうだろうか、という疑問もある。しかし戦乱の世が収まった時代としては、この方が都合がよかったのかもしれない

2011-11-26 01:11:10
名無し整備兵 @seibihei

小幡の弟子に北条氏長がいる。江戸町奉行や大目付を勤めているが、彼は小幡の説をさらに推し進め、倫理的要素の強い兵法を説いた。呼び名も「兵法」ではなく「士法」としている。

2011-11-26 01:16:56
名無し整備兵 @seibihei

彼はオランダ人から当時の西洋の砲術・攻城法についても聞き出している一方、天照信仰に傾倒し、日本の独自性を強調するようになっている。本人の中では折り合いついていたんだろうか。

2011-11-26 01:19:07
名無し整備兵 @seibihei

そして、この北条氏長の門人が山鹿素行である。兵法家としても有名ながら、「中朝事実」等の国粋的な思想を主張し、また術策よりも道徳を「士道」として重要視した。これは素行以降はあまり広まらなかったが、幕末になって息を吹き返す。

2011-11-26 01:30:13
名無し整備兵 @seibihei

素行の死後、山鹿流はそれほど広まったわけではない。しかし、この山鹿流軍学が根を下ろした地域がやがて日本を揺るがすことになる。水戸徳川藩と萩の毛利藩だ。

2011-11-26 01:35:35
名無し整備兵 @seibihei

萩の吉田松陰はシンガポール恋しがる・・・わけではなくて、吉田家に伝わる山鹿流兵学を学び、それを松下村塾で弟子に伝えた。これは長州出身に限らず、直接・間接にその影響を受けた陸軍人に受け継がれていく

2011-11-26 01:38:13
名無し整備兵 @seibihei

特に日露戦争に勝利し、「我が国独自の兵法」が見直される明治末年には「素行会」が結成され、「中朝事実」に代表される国粋的な精神教育の普及に努めた。これは幼年学校での教育に強い影響を残した、という説もある。(前原透「日本陸軍の用兵思想」)

2011-11-26 01:43:29
名無し整備兵 @seibihei

この山鹿流とコラボしたのかと疑われるのが、「闘戦経」を含む楠流である。由井正雪については、そのうち山口貴由氏辺りが漫画にしてくれるだろう

2011-11-26 01:52:36