真筆御書から読み解く日蓮の文字曼荼羅の主題の下に必ず書写された「日蓮」の二文字の意味と人法一箇論

今までに日蓮本仏論を二つほどまとめましたが、 https://togetter.com/li/1235285 https://togetter.com/li/2151216 これが三回目でかつ、最後のまとめとなりそうです。
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komekome39 @komesandazo

hw001.spaaqs.ne.jp/miya33x/paper4… 宮田教授という人の論文「日有の教学思想の諸問題」で、結論としてこの人は、「日蓮本仏論を採用する必要性はないと考えている」と主張しているのだが、とても皮肉なのは、こうした議論をすることがブーメランとなって、日蓮本仏論を見事に補強してしまっていることだな。

2023-09-03 23:28:24
komekome39 @komesandazo

この教授には申し訳ないが、この論文はツッコミどころ満載で、どこから突っ込んで良いか分からないくらいだな。そして残念なことは、須田氏以外にはまともな反論の論文が見つからないことだ。そこで、より詳しくこの論文に対しておかしいところを議論していこうと思う。先ずは人法一箇論だな。

2023-09-03 23:36:19
komekome39 @komesandazo

hw001.spaaqs.ne.jp/miya33x/paper4… 氏の論文に主張に次のようなものがある。1-1 曼陀羅本尊論より、「この段階(日興〜日道)では大石寺派に人本尊の思想や、ましてや人法一箇論の本尊思想は見られない。」 これは明白な誤り。観心本尊抄にはこうある。 続く

2023-09-04 22:32:12
komekome39 @komesandazo

「一念三千を識らざる者には仏・大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頸に懸けさしめ給う」。 末代幼稚の者に授与されたものとは他ならぬ御本尊である。そして、「五字の内に此の珠を裹み」とは、主題の題目を諸天全神等の一念三千の比喩表現で包み込んだ御本尊の相貌に他ならない。 続く

2023-09-04 22:37:40
komekome39 @komesandazo

では一念三千とはなんぞや?「此の三千・一念の心に在り若し心無んば而已介爾も心有れば即ち三千を具す」観心本尊抄 心即ち生命の全体像こそが一念三千と言える。この時点で、御本尊は南無妙法蓮華経という法と、それを包み込む一念三千の生命(人)で成り立っていることがわかるだろう。 続く

2023-09-04 22:41:37
komekome39 @komesandazo

従って人法一箇論というのは大聖人や日興上人にはみられないというのは明らかな誤りで、大聖人の時代には既に存在していたものだ。実は人法一箇とは大聖人の発明物などでは決してない。法華経は勿論、原始仏教まで遡ることができる。 続く

2023-09-04 22:45:09
komekome39 @komesandazo

dharma-winds.netブッダダルマ/仏教の原像/ それこそがこれだ。 「ヴァッカリよ、実に法を見るものは私を見る。私を見るものは法を見る。ヴァッカリよ、実に法を見ながら私を見るのであって、私を見ながら法を見るのである」サンユッタ・二カーヤ 法と人が一体であることが見て取れる。 続く

2023-09-04 22:53:06
komekome39 @komesandazo

釈尊は大涅槃経にて、自灯明・法灯明。即ち、「自らを灯明とし自らを拠り所とせよ。法を灯明とし法を拠り所とせよ」という遺言を残したが、此れは 「法を見るものは私(仏陀)を見る。私を見るものは法を見る」 というサンユッタ・二カーヤを踏まえて考えるならば、 続く

2023-09-05 23:34:04
komekome39 @komesandazo

この法というものは釈尊の独占物などではなく、万人の生命に内在しており、自分と法の二つを拠り所とすることで、誰にでも成仏への道が開かれるということを意味していると考えることができるだろう。だからこそ釈尊は大涅槃教で舎利弗にこう説いたのだ。 続く

2023-09-05 23:38:32
komekome39 @komesandazo

真実を知り得る智慧を会得することで、人は誰でもブッダ(目覚めた者)になりえる」と。 万人成仏そして人法一箇。これらはまさに法華経、そして大聖人の妙法に繋がる教えであり、法華経とは釈尊とは無関係という大乗非仏説の主張は明らかに誤りであることが分かるであろうと思う。

2023-09-05 23:41:13
komekome39 @komesandazo

又、仏法はサンスクリット語では「buddha-dharma」と書く。buddhaとは仏陀、即ち人であり、dharmaとは法を意味する。即ち、法と人が一体となった教えこそが仏法ということだ。氏の「人法一箇」は日蓮等には見られないというのは完全な誤りであることがわかるだろう。では法華経はどうなのか? 続く

2023-09-04 22:56:49
komekome39 @komesandazo

如来神力品にそれがある。 kakuyomu.jp/works/16816927… 「この法華経の功徳を説いたとしても、なお、説き尽くすことは不可能」 繰り返しの詩の部分で 「法華経を受け入れて保持している者をほめたたえたら、(略)ほめたたえ尽くすことは不可能」 一方では法を、一方では人を讃えている。 続く

2023-09-04 23:04:40
komekome39 @komesandazo

池田先生は法華経の智慧で、この箇所は人法一箇論であると明言されている。 pic.twitter.com/89oXE3ePHl

2023-09-04 23:07:26
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komekome39 @komesandazo

法師品は人法一箇がより明快に説かれている。 「(経典がとどまっている所に建てられた)塔には、仏の遺骨を安置する必要はない。それはなぜかと言えば、この宝塔の中に既に如来の全体がおられるからである」 塔(法)と仏(人)が一体であることが説かれており、更に重要なことはこれを大聖人が 続

2023-10-02 23:48:22
komekome39 @komesandazo

釈尊を否定した本尊問答抄で引用されていることだ。これは後に議論することにする。

2023-10-02 23:50:10
komekome39 @komesandazo

なお大聖人は「身を挙ぐれば慢ずと想い、身を下せば経を蔑る」聖人知三世事(真筆あり)と仰られている。仮に人と法が一体でないのであれば、どうして身を下すことが経を蔑ることになるのか?そのような理屈はない。 更に、聖人知三世事同様に富木常忍殿に与えられた、 続く

2023-09-04 23:11:27
komekome39 @komesandazo

忘持経事(宸筆完備)には「かくのごとく観ずる時、無始の業障たちまちに消え、心性の妙蓮たちまちに開き給うか」とある。心性の妙蓮とは、富木殿の心に内在する南無妙法蓮華経という法であると捉えるべき。法華経にあらず。理由は「彼(正法)は一品二半、これ(末法)はただ題目の五字」だから。続く

2023-09-04 23:16:31
komekome39 @komesandazo

twitter.com/komesandazo/st… そして、見宝塔品のこの一節を考えたならば、富木殿の心性の妙蓮、即ち妙法蓮華経の五字は、決して富木殿の生命と切り離すことができない存在であると見なすことが可能となる。

2023-09-17 14:06:02
komekome39 @komesandazo

最も明白な法華経の人法一箇はこの箇所だろう。三枝充悳訳の法華経見宝塔品より 「この宝塔の中には、如来の身体全体がおられるのだ」 宝塔とは法を意味し、如来は人を意味する。そしてこの二つが、切り離せない関係となっているのがわかるだろう。

2023-09-17 14:02:56
komekome39 @komesandazo

人法一箇論はこれで良いだろう。次に、氏曰く。 「日蓮正宗の伝統的教義理解によれば、これは明確に日蓮御影を人本尊として扱うということを意味している。」 これも信じられないような誤りだな。氏は文字即仏という色心不二の法理をご存知ないのだろうか?

2023-09-04 23:21:07
komekome39 @komesandazo

「色心不二なるがゆへに而二とあらはれて仏の御意あらはれて法華の文字となれり、文字変じて又仏の御意となる、されば法華経をよませ給はむ人は文字と思食事なかれすなはち仏の御意なり」木絵二像開眼之事 「仏の御意」とは仏の生命と訳すことができる。そして、木絵二像とは釈迦の仏像・画像 続く

2023-09-04 23:24:50
komekome39 @komesandazo

とは、生命の抜けた抜け殻のようなものであると言える。だからこそ、「法華経を心法とさだめて三十一相の木絵の像に印すれば木絵二像の全体生身の仏なり」、即ち仏の生命である法華経を釈迦の仏像・画像に印することで、生きた仏と同等になるというのがこの御書の重要な教えだ。 続く

2023-09-04 23:27:48
komekome39 @komesandazo

文字曼荼羅には仏像・画像とは違い、仏の生命である法が既に印されている。南無妙法蓮華経、と。従って御影像を人本尊と捉えるのは、日顕宗の、「開眼供養していない曼荼羅は魔の入った本尊」という主張同様の邪義となる。 続く

2023-09-04 23:30:44
komekome39 @komesandazo

「日興が云く、御影を図する所詮は後代に知らしめん為なり」富士一跡門徒存知の事 御影とは現代で言えば。写真とか動画で故人を偲ぶことと同様と考えられる。大聖人が所持していた釈迦の仏像も同様。大聖人は釈迦の仏像など制作していない。これらを人本尊と捉えるのは御書に照らして明らかな誤りだ。

2023-09-04 23:33:56
komekome39 @komesandazo

大石寺の歴代法主は当然、こうしたことは常識として知っていたはずだ。従って、大聖人の御影を人本尊として信徒に配ったような歴史は恐らくないのではないだろうか(大石寺の謗法はひどいものがあるので、あくまで仮定だが)。 続く

2023-09-04 23:37:43
komekome39 @komesandazo

hw001.spaaqs.ne.jp/miya33x/paper4… 氏の議論の最大の失敗はこれだろう。 「「御経聖人」「御経」に供養を奉げた」という日興の記述をもって、「日蓮を仏として崇拝していたという『要義』の議論には無理がある」 日興のいう「御経聖人」とは木絵二像開眼之事に照らしてどういう意味だ?正に大失敗だな。 続く pic.twitter.com/IqXcmSUqpL

2023-09-04 23:49:03
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