真筆御書から読み解く日蓮の文字曼荼羅の主題の下に必ず書写された「日蓮」の二文字の意味と人法一箇論

今までに日蓮本仏論を二つほどまとめましたが、 https://togetter.com/li/1235285 https://togetter.com/li/2151216 これが三回目でかつ、最後のまとめとなりそうです。
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komekome39 @komesandazo

この日興の「御経聖人」の御経が法華経に当たると思ったら、実はそれは大きな誤りだ。その理由は、「今、末法に入りぬれば余経も法華経も詮なし。ただ南無妙法蓮華経なるべし」(上野殿御返事)とあるためだ。又。観心本尊抄にも、「彼は(釈尊在世)一品二半此れ(末法)は但題目の五字なり」とある。

2023-09-05 23:48:48
komekome39 @komesandazo

即ち、御経とは南無妙法蓮華経のことを意味するのは明白だ。そして聖人とは日蓮大聖人のことを意味している。釈迦聖人とは誰も言わない。そして、「法華経の文字は皆生身の仏なり我等は肉眼なれば文字と見るなり」法蓮抄。 文字即生命の色心不二の原理がここで説かれている。 続く

2023-09-05 23:55:23
komekome39 @komesandazo

即ち、「御経聖人」と書いた日興の意図とは、南無妙法蓮華経 日蓮 あるいは稀に 南無妙法蓮華経 日蓮聖人 と大書された人法一箇の文字曼荼羅を指し示しているのは明白だろう。釈迦などではない。その理由は、釈迦の生命とは題目ではなく法華経だからだ。 続く

2023-09-05 23:58:13
komekome39 @komesandazo

hw001.spaaqs.ne.jp/miya33x/paper4… 氏はこの論文の最後で、「法華経の題目は法華経の肝心であり、久遠釈尊の証悟でありますから、法華経の題目=釈尊でありましょう」と述べているが、それでは法華経の題目と釈尊を結びつける御書があるか調べてみれば良い。特に仏像の開眼供養に関する御書が重要だ。 続く。

2023-09-06 23:36:36
komekome39 @komesandazo

「木像画像(釈迦の仏像・画像)の開眼供養は唯法華経にかぎるべし」本尊問答抄 「されば画像・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎるべし」四条金吾釈迦仏供養事 「三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつれば必ず純円の仏なり云云」木絵二像開眼之事 続く

2023-09-06 23:40:00
komekome39 @komesandazo

「法華経をよませ給はむ人は文字と思食事なかれすなはち仏の御意なり」木絵二像開眼之事 「法華経は釈迦仏の御いろ、世尊の御いろ、如来の御いのちなり」女人某等御返事 真筆のある御書は、ことごとく釈迦=法華経となっている。釈迦=法華経の題目ではない。 続く

2023-09-06 23:50:08
komekome39 @komesandazo

真筆が現存していない御書もやはり同様。 「法華経の文字を拝見せさせ給うは、生身の釈迦如来にあいまいらせたりとおぼしめすべし」四条金吾殿御返事 最も有名な御書はやはりこれ。 「仏の御意は法華経なり、日蓮がたましいは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」経王殿御返事 続く

2023-09-06 23:54:01
komekome39 @komesandazo

くどい話になるが、末法はもはや法華経の時代ではないのだ。この経典はもはや「詮なし」なのだ。末法は「但題目の五字」なのだ。 「今、末法に入りぬれば余経も法華経も詮なし。ただ南無妙法蓮華経なるべし」(上野殿御返事) 「彼は(釈尊在世)一品二半此れ(末法)は但題目の五字なり」 続く

2023-09-06 23:58:05
komekome39 @komesandazo

身延系のHPで、次の御文、「彼は(釈尊在世)一品二半此れ(末法)は但題目の五字なり」を、法華経と題目は違う法体であると解釈する学会は間違っているというトンデモを読んでしまった。その理由は法華経の肝要は題目だから、法華経=題目だそうだ。

2023-10-05 23:33:47
komekome39 @komesandazo

更にいうなら、日興の書写があるこの御書「今、末法に入りぬれば余経も法華経も詮なし。ただ南無妙法蓮華経なるべし」は、その人物によれば偽書だそうだ。もう滅茶苦茶だな。まあいい、これを破折させてもらう。「末法は但題目の五字」、この但の意味は国語辞典でこのような意味。それだけと限定する pic.twitter.com/Q9MEtjx8b4

2023-10-05 23:38:11
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komekome39 @komesandazo

つまり、末法は題目以外にはないと大聖人は仰せだ。文法上そこに法華経が入る余地などない。それとも但という日本語の用法を大聖人が間違えているなどとでもいうのか?それは大聖人を侮辱することになるな。そして「法華経も詮なし」と「末法は但題目の五字」は何ら矛盾しない。

2023-10-05 23:40:43
komekome39 @komesandazo

それではなぜ末法では法華経は詮なしなのか?その答えは法華経の神力品にある。 「諸仏が道場に座って得た秘要の法を、この経を受持する者はわずかの間に得るだろう」。 「諸仏が道場に座って得た秘要の法」と「この経」は明らかに文脈からして同じではない。同じというなら国語力に問題があるな。

2023-10-05 23:44:45
komekome39 @komesandazo

そして、「この経」とは「諸仏が道場に座って得た秘要の法」を得るための存在であり、一旦秘要の法が得られたのであれば、もはやこの経は不必要になるのは道理だろう。そして、この経の肝要、即ち、混じり気の全くない純粋なものが秘要の法と言えるだろう。この経=法華経、秘要の法=題目となる

2023-10-05 23:47:50
komekome39 @komesandazo

そしてこの二つは同じ法体ではない。仮に同じなら、大聖人の真筆が残る諫暁八幡抄が示すように、日>月となる道理はない。以上で身延の某HPの邪義破折終了。

2023-10-05 23:51:42
komekome39 @komesandazo

法華経の教主を本尊とす法華経の正意にはあらず、上に挙ぐる所の本尊は釈迦・多宝・十方の諸仏の御本尊・法華経の行者の正意なり」本尊問答抄 だから次のような金言が残されている。法華経で開眼された釈迦の仏像・画像は大聖人が本意とする本尊ではないということ。釈迦を人本尊とするのも同様。

2023-09-07 00:01:56
komekome39 @komesandazo

なお日興上人の直弟子で、重須本門寺の二代学頭の三位日順は、「誓文」で、「別シテ而本尊総体之日蓮聖人」と記載し、題目の下に大書された日蓮の二文字が、大聖人の己心を示すことを仄めかしている。全文が記載されている論文を見つけたので、スクショで引用しておく。 kawasumi.html.xdomain.jp/bunken/daikoku… pic.twitter.com/y7pUVcj6sH

2023-11-09 22:16:57
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komekome39 @komesandazo

即ち、題目の下の日蓮の二字は日蓮本仏論を示しているという解釈が、日興及びその弟子にあったという証拠だ。そして、「此の事(始観心本尊抄)日蓮身に当るの大事なり」(観心本尊抄送状)という御書を考えたならば、なんら矛盾しない。日興に日蓮本尊義はないという考えは明らかな学者の間違いだ。

2023-11-09 22:24:35
komekome39 @komesandazo

それではなぜ詮なしの法華経も読誦するのか? その答えは御書にはこれしかない。「一には所破の為二には文証を借るなり」五人所破抄 簡単に言えば法華経読誦は末法では題目の補助に過ぎない。だから法華経それ自体を末法の時代に文字即仏として本尊とするのは誤りということだ。 続く

2023-09-07 23:49:12
komekome39 @komesandazo

正法・像法時代は釈迦の仏像・画像のたましひは法華経で、末法は釈迦の仏像・画像のたましひは題目の五字ということは言えないのか? 仮にそうなら「法華経の教主を本尊とす。法華経の正意にはあらず」とはならない。 続く

2023-09-07 23:53:08
komekome39 @komesandazo

twitter.com/komesandazo/st… 大聖人の文字曼荼羅が、氏の主張するような人法一箇ではない法本尊でもなければ、釈迦を中心とする本尊でもない決定的な証拠は、先ほど私が述べた法師品に説かれた人法一箇の一説を、大聖人がこの本尊問答抄で引用していることにある。ではそれを引用してみよう。

2023-10-02 23:57:33
komekome39 @komesandazo

法師品は人法一箇がより明快に説かれている。 「(経典がとどまっている所に建てられた)塔には、仏の遺骨を安置する必要はない。それはなぜかと言えば、この宝塔の中に既に如来の全体がおられるからである」 塔(法)と仏(人)が一体であることが説かれており、更に重要なことはこれを大聖人が 続

2023-10-02 23:48:22
komekome39 @komesandazo

「法華経の題目を以て本尊とすべし(略)法華経の第四法師品に云く「薬王在在処処に若しは説き若しは読み若しは誦し若しは書き若しは経巻所住の処には皆応に七宝の塔を起てて極めて高広厳飾なら令むべし復舎利を安んずることを須いじ所以は何ん此の中には已に如来の全身有す」 続く

2023-10-03 00:00:28
komekome39 @komesandazo

これを次のように読んでみよう。 「復舎利を安んずることを須いじ所以は法華経の題目(此の中)には已に如来の全身有す」 即ち、仏の遺骨を安置する必要なし、その理由は法華経の題目の中に仏がいらっしゃるから、となる。しかしその後に「法華経の教主(釈尊)を本尊とす法華経の正意にはあらず」

2023-10-03 00:05:10
komekome39 @komesandazo

とある。即ち、今まで散々議論してきたように、法華経の題目の中には釈尊という仏はいらっしゃらないということになる。この法華経の題目の中にいらっしゃる仏様は別のお方だ。そのお方の名前はあえていうまでもない。この御書は実はこうしたことが秘されていると考えて良いだろう。

2023-10-03 00:07:38
komekome39 @komesandazo

更にいうなら、 「月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり、月は光あきらかならず在世は但八年なり、日は光明・月に勝れり」諫暁八幡抄 日>月であり、即ち、そのお方は釈尊よりも偉大な仏様ということがここで説かれている。

2023-10-03 00:10:47
komekome39 @komesandazo

それでは「日本乃至一閻浮提一同に、本門の教主釈尊を本尊とすべし」報恩抄 という金言はどうなるのか?「法華経の教主(釈尊)を本尊とす。法華経の正意にはあらず」という金言と明らかに矛盾するではないか? 続く

2023-09-07 23:54:24
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