「関ヶ原」~考察・議論・資料・豆知識集(「どうする家康」から)

「どうする家康」や関連番組で多数、関ヶ原合戦が描かれ、それを受けた関連ツイートで面白いものがたくさんあったので、記録として保存しておきます
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Magic User @tom41mzh

@motoco150 朽木元綱は本領安堵で太閤蔵入地の代官の地位のみ取り上げと見るべきという説も有りますね。

2023-11-13 16:52:22
樋口左衛門尉隆晴 @saemonhiguchi

関ヶ原における島津の前進退却。通説にのっとる場合、戦術的にはあの方法しかないんだけど、それができるというのは勇敢だって証拠。勝つ戦いって結果的に積極的にリスクを取りに行っている場合が多いんだけど、それは心理的にたいへん難しいんですよね。

2023-11-13 17:19:45
Fviajante223 @Fviajante223

@ZENRIN_official 大垣城から南の伊勢街道を経て先回りして関ヶ原で陣を構えるのはやはり変だな。小早川秀秋が松尾山に入って東軍についたから西軍は慌てて夜半に大垣城から退却し、そこを東軍が後ろから追撃したから半日で壊滅させることができた。抑え役か殿だった毛利・吉川は裏切って動かなかった。#どうする家康

2023-11-13 18:35:53
たぬやすくん @Tanuyasukun

#どうする家康 三成サンはなぜ自害せず逃げたのか? まず、討死してない大名クラスは大谷サン以外みんな逃げてるヤス。大谷サンも病で崩れた顔を見られたくないので討たれる前に…って感じだヤス。大前提としてみんな逃げてるヤス。 捕まった後の本人の言葉はないので軍記物の言葉を借りるヤス。 pic.twitter.com/J83Nt2U9PO

2023-11-13 18:41:50
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たぬやすくん @Tanuyasukun

大坂に移送されて、おそらく晒し者にされていたと思われる三成サン。そこにきた福島正則サン・池田輝政サン・浅野幸長サン・細川忠興サン・藤堂高虎サン。 「不覚悟である。なぜ恥を晒す前に潔く討死しなかったのか」 問われた三成サン。 「言いたい事もわかるが、討死しようとするのは小人の勇だ。

2023-11-13 18:41:51
たぬやすくん @Tanuyasukun

大将たるもの命を全うして後日の戦いに備えるものである。 信長様は様々な場面で逃げたが天下をお取りになった。私が生きるために逃げたのも臆病だからではない。 輝元と力を合わせもう一戦するためであったが、家康の運が強く叶わなかった。道理を知らないからではない。」

2023-11-13 18:41:51
たぬやすくん @Tanuyasukun

これを聞いた諸将は黙ったヤス。 福島正則サンは進み出て 「最もである。武将たるもの治部少の様に死にたいものである。少しも恥ずかしくはない」 どうだヤス?最後まで生きようとした三成サンも、そして認めた福島正則サンも、カッコよくないヤス〜?

2023-11-13 18:41:52
たぬやすくん @Tanuyasukun

これは関ヶ原の戦いから約60年後に成立した『慶長軍記』。 まだ生き残りから話を聞ける年代、加えて著者は藤堂藩の関係者なので、その場にいた藤堂高虎サンの話が伝わった可能性もあるヤス。 軍記物とはいえそこそこの信憑性はあるのでは?と思ってるヤス〜。

2023-11-13 18:41:52
Gonza @Gonza_Orc

小早川秀秋の「陣羽織 猩々緋羅紗地違鎌文」など、見た目にも分かり易い本人所用の衣装(中には伝承もあるけど)が現代まで伝わっているのは、その人物を描くにあたっての目印として色んな創作者を助けて来たんだろうな。 #小早川秀秋 #どうする家康 pic.twitter.com/eWLVH78Ie3

2023-11-13 18:54:39
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KEI-CO @keico

今日は小早川秀秋を想った日だった。お亡くなりになったあと、あの世で後世の歴史作品に触れるたび「え~っ俺裏切り者になってんの?」と歯痒く思ってたかもしれないね…どうする観てたら嬉しかっただろうな。最新の説らしいけどいつかまた新説も出てくるかもしれなくて歴史ってのはほんと面白すぎる。

2023-11-13 19:25:12
エクスカリバー @Excalibur1115

@Himadashiz 「動かない」とか「裏切る」とかほ布陣からは分かりませんもんね… それぐらいのどんでん返しが天下分け目の決戦で起きてしまったということが関ヶ原の戦いを伝説にしたのだと思っています✨

2023-11-13 19:52:02
ゆう🚀 @k_zbv

@motoco150 呼応して寝返った4武将、その後を知りたかったので大変ありがたいです。 ただ寝返ればよいという訳では無い・・・改易は意外でした!

2023-11-13 19:57:24
石田三成@ZIBU @zibumitunari

……こんばんは…15回目の関ヶ原に敗れ、失意のうちにTwitterから離れていた石田三成です……。 ……いつの間にか記事にされてました……。 弱音ばかり言ってられない。 皆々、次の大河こそ必ず西軍勝利を目指そう!16回目は勝つ!!!!!!!!!!!!!! #どうする家康 chunichi.co.jp/article/805836

2023-11-13 20:12:11
NobunagA @NobunagA_A

井伊直政がめちゃくちゃかっこいいのは、島津の銃撃で重傷を負ったにもかかわらず… その島津と徳川の仲介に奔走するのだよ…自分を撃った島津は見事だ、と。 でもそうした無理が祟って、2年後に…。 また、島津義弘も甥の若い豊久を討たれたのに恨んでいない。 #どうする家康 twitter.com/NobunagA_A/sta…

2023-11-13 20:26:40
NobunagA @NobunagA_A

この時代の鉄砲は、毒矢みたいなものでもあり、弾が残ってしまったりすると、その鉛のせいであとで死に至るのです… そのとき助かったからといって、数カ月後に亡くなることがある。 直政、若いのに無念すぎるよね… #どうする家康

2023-11-12 22:17:20
撲殺神官鈴木重秀【ネトウヨファラオ(呪いは珍獣を怒らせる程度の能力)】 @magoichisaiga

@Himadashiz オチとして「事前の根回し」で裏切り、傍観が続出して西軍が負けたと説明を受けて「それは政治の話だから(陣形だけ見せられての軍事的見立とは)関係ない」みたいなことも言ったとか。

2023-11-13 20:58:13
ハンニバル @spke9mt91

@Himadashiz 政治を勘案しないとそうなるよね だからドイツ軍人とその弟子に 政治を語らせたらいけなかったんだ もう後の祭りだったけど

2023-11-13 21:01:45
事務カリー(大掃除垢) @zimkalee

現在となっては「開戦前に実質的に決着していて、実は掃討戦という感じだった」みたいに考えられている関ヶ原の戦いが「天下分け目の決戦」と長年伝わっているのは、やはり江戸幕府としては徳川家の天下人が事実上確定した戦いだから、家康と家臣の華々しい智勇による勝利としたかった思惑なのかしら。

2023-11-13 22:03:58
ねこアイスマン @kijiNekozuki

🏯第43回「関ヶ原の戦い」 戦国史最大のクライマックスついに決着‼ 今回の家康さまはどうするどころじゃないとの 噂でしたが…ほんとに落ち着き払ってましたね😊 天下人オーラ出まくりでした! 今週も感想かきました🖊️ 🤖ミツナリ君🤣🤣🤣 #どうする家康 #どうする絵 pic.twitter.com/dKALfWgnlz

2023-11-13 22:47:03
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@motoco150

@tom41mzh コメントありがとうございます^^ そのように考える説もありますね。そういえば織田信長の金ヶ崎撤退時に朽木元網が領内の通行を妨げていたら、また歴史が変わっていたかも。

2023-11-14 02:27:45
@motoco150

@k_zbv コメントありがとうございます。少しでもお役に立ててよかったです^^ 関ケ原から20年くらい前、武田方から織田方に寝返ったのに織田信忠に処刑された武将もいますね。

2023-11-14 02:29:10
K・HIRAYAMA @HIRAYAMAYUUKAIN

「どうする家康」の関ヶ原合戦の回はいかがでしたでしょうか。さて、今回のドラマで、井伊直政らが「殿、天下を取られましたな」という台詞があり、これは家康が秀頼から天下を奪ったと理解する人が多かったようです。基本は、過日私が「時代考証の呟き」で述べたとおり、三成らに奪われた「天下」(秀頼のもとにある「天下」)を奪還したという意味であることに変わりはありません。#どうする家康 #時代考証の呟き

2023-11-14 02:29:55
K・HIRAYAMA @HIRAYAMAYUUKAIN

もう一度、押さえておくと、家康は秀頼を支える天下殿(天下人)であり、それは豊臣体制の大老、そして「秀頼名代」としての資格のもと、衆目の一致するものでした。ところが三成、大谷吉継らの挙兵と三奉行の同調により、「内府違いの条々」で家康は、ここでいったん「天下殿」(天下人)の地位から放逐されたのです。つまり、豊臣体制の「天下人」(秀頼名代)は、事実上空位となっていたわけです。  このままいけば、毛利輝元か、宇喜多秀家あたりがその地位に就く可能性があったでしょう。しかし、関ヶ原合戦でその可能性は皆無となり、家康が再びその地位を奪回したわけです。しかも今度は、誰がみてもその地位を揺るがすような相手がいないという、確固たる存在としての「天下人」(秀頼名代)となりました。なので、直政らが「殿、天下を取られましたな」と言ったとしても、それは豊臣体制のトップであり、秀頼の後見人として揺るぎない存在となったことを寿ぐものに他なりません。まったく矛盾しないと思います。

2023-11-14 02:30:22
K・HIRAYAMA @HIRAYAMAYUUKAIN

その証拠に、家康は戦後大老に復帰すると、論功行賞を主導します。しかし福島、黒田、細川、山内らの東軍諸将への加増、転封は、使者派遣による伝達を原則とし、家康による知行宛行状は発給されていません。このことについて、黒田如水は「加主計・拙者事は今度切り取り分、内府殿御取りなしを以て、秀頼様より拝領仕り候様に、井兵仰せ談ぜられ、御肝煎り頼み存じ候」(加藤主計頭清正と私のことについては、このたび(敵方より)切り取った分(領土)については、家康の取りなしにより、秀頼様から拝領されますよう、井伊兵部少輔直政に相談し、(家康への)肝煎りをお願いしたところです)と述べているごとく、家康と秀頼による意思により決定されることを想定しているのです(知行加増の決定の主体はあくまで秀頼)。あくまで家康は、秀頼の代弁者として振る舞い、これを支える方針を変えていません。ただ、知行宛行状を出さなかったのは、豊臣体制の主導権を握ったものの、あくまで秀頼名代としての立場を越えることが出来なかった、その当時の家康の限界でもあったといえるのです。この時点で、いったん分裂した豊臣体制は、家康と東軍諸将により、秀頼の元で再び一本化、再編成され、家康が頂点に立っているものの、徳川が豊臣に取って代わるものではなかったのです。

2023-11-14 02:31:11
K・HIRAYAMA @HIRAYAMAYUUKAIN

家康はなおも、秀頼との主従関係を結んでいたことは瞭然です。これに変化がもたらされるのは、家康の将軍任官が朝廷の方針として示され、彼もそれを受け、豊臣体制かは離れ(秀頼との主従関係を解消)、大坂城西の丸から出て、伏見城に移り、天下の政務を行うこととなった一連の動きの結果です。  通説やこれまでのドラマ、小説の影響が強いため、なかなかご理解いただけないのかも知れませんが、「どうする家康」では過去の「時代考証の呟き」と、今回の説明とをあわせて、一貫して描いて頂いたと考えております。「わかりにくい」というご批判は、あろうかと思いますが、時代考証陣の資料提供に基づき、脚本はこうした流れで書いていただいたと感じています。皆さまはいかがでしたでしょうか。 #どうする家康 #時代考証の呟き

2023-11-14 02:31:38
ミスター武士道 @bushidoh_sb

秀吉の織田家からの天下簒奪を、多くの織田大名が容認していたように、家康の豊臣家からの天下簒奪を、東軍についた豊臣大名は容認していたと思う。 ”豊臣恩顧”という言葉が一人歩きして、みんな秀頼を大事にしていると思いがちだが。 秀吉を推した池田、丹羽、前田らも織田恩顧の大名だったろう。

2023-11-14 04:34:59
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