「稲作は、日本から朝鮮半島に伝わった」という主張は間違いです。(改訂版)

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高木健一 @zzTyV6vdCnkuLnm

「稲作は、日本から朝鮮半島に伝わった」という主張がネットで広まっていますが、間違いです。現在の考古学では、稲作は主に「山東半島→遼東半島→朝鮮半島→北部九州」という順で伝わったというのが最も有力な学説です。(宮本2019) 次に有力なのも、「山東半島→朝鮮半南部→北部九州」という順で伝わったという学説です。主に朝鮮半島から水田稲作が日本へ伝わったというのは、ほぼ全ての考古学者が支持する見解です。

2023-11-25 05:42:07
高木健一 @zzTyV6vdCnkuLnm

佐藤洋一郎先生の古い時代のコメの遺伝子の研究結果を根拠として、朝鮮半島から日本に水田稲作が伝わったという学説を否定する人達がいます。 しかし「日本の紀元前3世紀頃の米のDNAの遺伝子型が、朝鮮半島には存在しなかった。」って主張ですが、日本に水田稲作が伝来してから500〜700年後の稲の品種を調べても反論になりません。 その頃までには、朝鮮半島にはない品種が、中国から日本に伝わっていたと考えれば説明可能だからです。gendai.media/articles/-/962…

2023-11-25 05:44:53
高木健一 @zzTyV6vdCnkuLnm

そもそも紀元前3世紀頃の米のDNAの遺伝子型の研究をした佐藤先生自身が、ごく初期の水田は、縄文人が朝鮮半島を訪れ、そこで目にした水田を見よう見真似で作ったものではないかって主張しています。athome-academy.jp/archive/biolog… pic.twitter.com/d5PCZiRcYT

2023-11-25 05:46:13
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高木健一 @zzTyV6vdCnkuLnm

佐藤先生が書いた「稲の日本史」という本にも、日本の水田稲作は朝鮮半島からも来ていると書かれています。 稲の日本史78〜79p「朝鮮半島と日本列島とくに北部九州一帯における文化要素の共通性を考えると、朝鮮半島から日本に渡ったイネがあったと考えるのは自然である。私も、このルートがあったことに疑いをさしはさむものではない。」 稲の日本史131p「一方、もうひとつのaタイプのほうだが、これは朝鮮半島ではメジャーなタイプながら、中国における頻度はそう高くない。このタイプが朝鮮半島生まれかまたは中国で生まれたかは別として、とにかく朝鮮半島から日本にきたことは確かであろう」

2023-11-25 05:46:57
高木健一 @zzTyV6vdCnkuLnm

というわけで佐藤先生は、日本の水田稲作は朝鮮半島からも伝わったと断言しています。佐藤先生は研究結果を基に、中国から日本に直接伝わった稲の品種もあると主張しているだけです。 では佐藤先生の古代のコメの遺伝子の研究とは、どのようなものなのでしょうか。佐藤先生の「稲作の日本史」という本の内容の一部を解説します。

2023-11-25 05:48:36
高木健一 @zzTyV6vdCnkuLnm

DNAは遺伝情報の担い手です。そのDNAには何の遺伝情報も伝えない「のりしろ」のような部分が存在します。これを中立遺伝子と呼びます。その中立遺伝子の中にあるDNAのAやTAなどの短い配列の繰り返しはシンプル・シーケンス・リピートと呼ばれており、頭文字をとってSSRとも呼ばれます。 SSR領域はその多くが「のりしろ」の部分に見つかるので、特別の遺伝情報をコードしているわけではないことがわかります。このSSR領域には多くの変形版があります。 SSR変形版の多くはシンプル・シーケンスの繰り返し数の違いという形であらわれますが、このシンプル・シーケンスの繰り返し数はしょっちゅう変化するためです。 なので同じイネであっても、持っているDNAの量は違うのです。この変形版の違いを利用すると、イネの品種をSSRの型の違いによって区別できるようになります。

2023-11-25 05:49:12
高木健一 @zzTyV6vdCnkuLnm

日本列島、朝鮮半島、それに中国大陸の温帯ジャポニカ250品種。これらの品種はどれも、各国が組織的な改良を行う前から土地土地にあった品種で、在来品種と呼ばれています。その時代を日本に即して言うならば、江戸末期から明治時代くらいの時期に相当します。 250品種の在来品種のSSR多型のRM1というSSR領域を調べてみると、この250品種の中には8つの変形版が知られています。これらが小文字のa〜hの変形版がどこに分布するかを調べてみると面白いことがわかります。

2023-11-25 05:50:19
高木健一 @zzTyV6vdCnkuLnm

中国のRM1というSSR領域について調べると、8タイプ全てが、それぞれ割合が違えど分布していました。 朝鮮半島にはbタイプを除く7タイプが分布していました。 一方、日本の品種のほとんどはaまたはbに限られています。cも若干あるにはあるが、実数でいくとaとbが優位であることには変わりありません。a〜hのタイプが「のりしろ」の中立遺伝子であることを考えると、この結果はイネを運んだ人々の好みではなかったことがわかります。

2023-11-25 05:51:09
高木健一 @zzTyV6vdCnkuLnm

日本の在来品種の多くがaタイプとbタイプなのに、朝鮮半島にbタイプがない。bタイプの品種は、中国と日本には多く存在する。ならばbタイプが朝鮮半島にだけなかった理由は、中国から朝鮮半島を経由せずに直接日本列島に来たからと考えるのが自然です。 一方、もうひとつのaタイプのほうだが、これは朝鮮半島ではメジャーなタイプながら、中国における頻度はそう高くない。このタイプが朝鮮半島生まれかまたは中国で生まれたかは別として、こちらは朝鮮半島から日本にきたと考えるのが自然です。 ……というのが佐藤先生の研究の内容です。朝鮮半島から日本に水田稲作が伝わったという学説を否定する研究結果ではないのです。

2023-11-25 05:52:06
高木健一 @zzTyV6vdCnkuLnm

では次に、朝鮮半島から日本に水田稲作が伝わったという学説を有力だとする根拠を出していきます。まずは朝鮮半島と日本の最初期の水田稲作の遺跡を比べてみます。 日本最初期の水田稲作民の村と考えられている橋本一丁田遺跡から出土した土器に付着していたススや、宇木汲田貝塚から出土した炭化米を調べた結果、水田稲作が始まったのは紀元前10〜前8世紀だろうと考えられるようになりました。 この年代測定は、炭素14年代測定法によって測定されましたが、この測定法が何故正しいと言えるかについては、後述します。

2023-11-25 05:58:23
高木健一 @zzTyV6vdCnkuLnm

ただし橋本一丁田遺跡では水田が発見されたわけではなく、日本最古の水田跡は菜畑遺跡で見つかっています。ただ橋本一丁田遺跡と菜畑遺跡、それに宇木汲田貝塚、 板付遺跡、野多目遺跡、雀居遺跡などはほぼ同じ時期の遺跡です。 これに対して朝鮮半島最古の水田跡があるウルサン市オクキョン遺跡は、紀元前11世紀です。オクキョン遺跡では、1区画が2〜3平方mの小区画水田が見つかっています。朝鮮半島の方が、日本列島よりも水田稲作は少し古いのです。

2023-11-25 05:59:02
高木健一 @zzTyV6vdCnkuLnm

またオクキョン遺跡より南東5kmのところに、小河川が丘陵を開いてできた浅い谷があって、そこにも初期の朝鮮半島の水田跡があります。浅い小さな谷にあるのは初期の朝鮮半島の水田跡の特徴ですが、この点は九州の菜畑遺跡と共通しています。(田崎博之2003)

2023-11-25 06:00:36
高木健一 @zzTyV6vdCnkuLnm

ただ日本でも紀元前11世紀に入ると、海岸部や島嶼部にとどまっていた朝鮮半島の土器が九州東部や中国地方の内陸部で見つかるようになるためなのか、島根県板屋Ⅲ遺跡で見つかった紀元前11世紀の突帯文土器の表面には、イネ籾のスタンプ痕が付いているのが発見されました。これは日本最古のコメのスタンプ痕土器です。日本の縄文時代晩期から出土されるようになる突帯文土器は、朝鮮半島にあるものです。 遺跡からは朝鮮半島青銅器時代前期の特徴である孔列文を持つ土器も見つかっており、これにもイネの籾のスタンプ痕がついていました。 前10世紀以前の中国山地でコメが作られていたことを判断できるだけの証拠は少ないですが、もし作っていたとしても農耕社会を成立させるだけの本格的なものではなかったことについて研究者間に異論はありません。紀元前10世紀より前の、日本の土器の表面に残る穀物圧痕を調べたところコメの痕跡はほぼ皆無なのです。 10mtv.jp/pc/content/det…

2023-11-25 06:01:09
高木健一 @zzTyV6vdCnkuLnm

チヤニヨンピボンリ遺跡の土器圧痕調査により、朝鮮半島南部では新石器時代の7000年前にキビやアワが栽培作物として存在していたことが明らかになりました。紀元前15〜前13世紀になると、中国北部から畑作を行う人たちが南下してきて、朝鮮半島では本格的な畑作が始まります。 新石器時代の畑より規模が大型化して、アワやキビ以外にもコメやムギ、マメなどの作物が加わっていきます。 慶尚南道コムタン二遺跡では、陸稲の栽培があったと考えられています。この遺跡からは無文土器時代中期前半の環濠集落が発見され、穂摘み具である石包丁も見つかっています。無文土器時代中期のソングンニ遺跡からも石包丁が発見されています。 青銅器時代最古の土器である突帯文土器にともなう慶尚南道ピョンゴドン遺跡の紀元前13世紀の畑では、コメ、アワ、キビなどの穀物とマメなどを作り、穂を摘み取る石包丁や、伐採用の磨製石斧などの農耕具を使っていました。 紀元前12世紀になると、慶南オゥン遺跡のように、規模が3ヘクタールにもなる広大な畑も出てくるようになります。

2023-11-25 06:02:02
高木健一 @zzTyV6vdCnkuLnm

しかし、日本では本格的な畑作は紀元前10世紀に始まったと考えられています。アワは鳥取県青木遺跡の土器のスタンプ痕(濱田2013a)、キビは島根県三田谷Ⅰ遺跡の土器のスタンプ痕が最も古く、どちらも前9世紀です。日本最古の畑作の跡は、松山の文京遺跡で紀元前7〜5世紀です。nikkei.com/article/DGXLAS… 日本列島は、農耕社会の成立が世界の中でも極めて遅かったのが特徴です。nhk.or.jp/kaisetsu-blog/…

2023-11-25 06:02:48
高木健一 @zzTyV6vdCnkuLnm

本格的な畑作もほとんど始まっていない地域で、いきなり水田稲作が始まったならば、他所から農耕の知識や技術が持ち込まれたのでは?と疑うのが自然です。 特に最初期の水田跡であるはずの板付遺跡には、畦畔を作るなどの高度な土木工事が行われています。環黄海地域で、畦畔を備えた最も古い水田跡は、朝鮮半島南部から見つかっています。中国ではありません。

2023-11-25 06:03:23
高木健一 @zzTyV6vdCnkuLnm

福岡市板付遺跡や野多目遺跡で見つかっている水田は段丘上に開かれ、小規模な河川から水路を通して水を引き込んで幹線水路を確保しています。幹線水路には、取排水を調節する井堰を設置し、その間隔は野多目遺跡で30m、板付遺跡で50m、いずれもほぼ等間隔で設置されています。 つまり段丘上の森林を切り開き、高度な技術を駆使して水路を掘削し、人工的に水を通して給水を行わなければコメを作ることができない乾田を作っていたのです。給排水施設である井堰が狭い間隔で設置されているので、水を引く水田は1区画から数区画になる。畦畔は土盛りなので、大量の杭、矢板、横木によって補強する必要があり、その数は何百、何千にもなります。水田1区画の面積は300〜500平方mの、いわゆる大区画水田です。水田は水平でないと水を貯めることができないので、1区画が500平方mの水田を作るためには、水平に保つための高度な造田技術が必要となります。しかも土地の傾斜や地下水位の高さは地域によって異なります。水田稲作民は当初から、条件に応じて様々なタイプの水田を作ることができる高い土木技術を持っていたのです。 板付遺跡が見つかるまで、弥生開始期の水田は、わざわざ水路を作って水を引き込む必要のない、低地を利用した湿田だと考えられていたので、考古学界は板付水田の発見に大きな衝撃を受けることになりました。

2023-11-25 06:05:14
高木健一 @zzTyV6vdCnkuLnm

最初期の水田稲作民の村と考えられている板付遺跡、橋本一丁田遺跡、菜畑遺跡、雀居遺跡、野多目遺跡群、宇木汲田貝塚、有田七田前遺跡は全て北部九州にあります。 例外として最初期の水田跡は、宮崎県都城市坂本A遺跡でも見つかっています。しかし、先に挙げた北部九州の遺跡の方がより古いと考えられています。 このうち福岡県福岡市の板付遺跡、橋本一丁田遺跡、雀居遺跡、野多目遺跡群、有田七田前遺跡はどちらかと言えば九州の東側寄りです。坂本A遺跡も西寄りではありません。水田稲作が西から伝わったなら最初期の水田跡は、西九州に集まるはずなのに。 水田稲作が、西九州ではなく北部九州から始まるということは、西からではなく北から伝わったということです。

2023-11-25 06:06:30
高木健一 @zzTyV6vdCnkuLnm

これに対して南九州の地は、広大な火山灰台地のために水田耕作には不向きとされてきた。明治初期に記された『日向地誌』によると、南九州は近代に至るまで水田を遥かに凌ぐ面積の畑地が存在する畑作地帯であった。だから北部九州から水田稲作が始まることを、水田稲作が北から伝わった根拠とすることはできないという反論もありえます。 しかし南九州にある宮崎県高鍋町持田中尾遺跡では、韓国において稲作文化を持つ集落に見られる「松菊里型」と呼ばれる特殊な形態の竪穴建物跡が発見された時に、初期水田稲作に関係の深い「大陸系磨製石器」がセットで出土しました。

2023-11-25 06:07:14
高木健一 @zzTyV6vdCnkuLnm

松菊里型建物は、円形の平面プランで、床面中央部に土坑と2基の柱穴を持つことが特徴です。韓国の青銅器時代、初期稲作関連の遺跡として有名な「ソングンニ(松菊里)遺跡」で多く発見され、命名されました。この松菊里型建物は、佐賀県や福岡県など玄界灘沿岸の北部九州地域を中心に、弥生時代前期の初期水田稲作関連遺跡で発見されています。そして、この松菊里型住居は、宮城県都城市肱穴遺跡でも発見されています。肘穴遺跡では、朝鮮半島系の突帯文土器に伴う石包丁や住居跡が発見されました。肘穴遺跡は、最初期の水田跡がある宮崎県坂本A遺跡の近くです。 miten.jp/miten/modules/… つまり南九州の初期水田稲作の遺跡であっても、朝鮮半島と関係が深かったのです。このことは、主に朝鮮半島から九州全域へ水田稲作が伝わっていったことを示しています。

2023-11-25 06:08:41
高木健一 @zzTyV6vdCnkuLnm

また菜畑遺跡からは「朝鮮無文土器系甕」という土器が出土しています。菜畑遺跡からは、刃部に並行して、擦り切り状の切れ目が入れられてある石包丁も出土しています。この切れ目は朝鮮半島の石包丁に特有にみられるものです。saga-museum.jp/museum/report/… 有田七田前遺跡から出土する土器にも、朝鮮半島青銅器時代後期のチユンチヨンナムの土器が僅かに含まれています。種籾を蓄える朝鮮半島系の大形の壺も見つかります。 ただ日本の最初期の水田跡がある遺跡から、朝鮮半島系の土器があまり見つからないのは事実で、これが何故なのかはわかっていません。

2023-11-25 06:09:26
高木健一 @zzTyV6vdCnkuLnm

ですが水田稲作の最初期の日本の鍬の形は、朝鮮半島南部のものと全く同じタイプが出土しています。 「北部九州型」直柄鍬は、韓国光州広域市のシンチヤンドン遺跡から、日本列島の弥生時代中期前葉に相当する時期の平鍬(狭柄タイプ)が出土しており、これとほぼ同型のものが佐賀県土生遺跡で認められます。またシンチヤンドン遺跡では広鍬タイプは不明ですが、二又鍬、三又鍬も揃っています。 「直柄鍬」とは、身の上半部に穿孔をほどこし、そこに真っ直ぐな柄を通すタイプの鍬です。ちなみに身の上半部を棒状に加工し、そこに木の枝分かれ部分を利用した「膝柄」や「反柄」を紐で縛って固定するタイプは「曲柄鍬」と呼ばれます。 「北部九州型」直柄鍬は、大きな方形柄孔と、柄孔周辺に隆起部を作り出さないシンプルな形状が特徴です。ただし柄の方は他地域のような単純な丸棒ではなく、装着具と呼ばれる複雑な構造を持っています。また他地域の「地域型」直柄鍬はある程度刃部幅があり、かつ下端部が緩やかに湾曲する平鍬(広鍬)が主体ですが、「北部九州型」だけは広鍬と狭鍬、さらに下端部を二又や三又にした鍬も多数存在しています。 弥生時代前期以降に出現する「地域型」直柄鍬として、現状では山陰型、北陸型、北部九州型、瀬戸内型、近畿型を設定することが可能です。しかし最後まで生き残ったのは「北部九州型」直柄鍬でした。 この「北部九州型」直柄鍬は、古墳時代中期になると、これにU字型の鉄刃が下端部に装着されるようになります。「直柄風呂鍬」の誕生です。この「直柄風呂鍬」は、古墳時代終末期以降、本州へと伝播して、古代から江戸時代にいたるまで日本列島の鍬の原型となっていきます。

2023-11-25 06:11:43
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高木健一 @zzTyV6vdCnkuLnm

また日本で青銅器が使われ始めた当初も、朝鮮半島と同様のものが使われてます。初期の青銅器の鋳型が出てくる遺跡からは、朝鮮半島南部のものと同じ形の土器が出ます。 「日本最古の王墓」と呼ばれる吉武高木遺跡の3号木棺墓には、朝鮮半島製青銅鏡が入っています。 museum.city.fukuoka.jp/sp/exhibition/… 有力者の墓が見つかった福岡市博多区雑餉隈遺跡では、木棺墓に小壺、磨製石鏃、磨製石剣が副葬されていました。同じ時期の朝鮮半島南部の有力者の墓に見られる組み合わせと同じであることから、玄界灘沿岸地域の有力者にも石製武器と小壺を副葬するという朝鮮半島南部と同じ風習が広まっていたと考えられています。

2023-11-25 06:13:09
高木健一 @zzTyV6vdCnkuLnm

朝鮮半島南部では、紀元前12世紀にキヨンギ道ヨクサン遺跡から支石墓が出現します。前10世紀頃の朝鮮半島の墓制は支石墓です。朝鮮半島では、外面に赤い丹を塗った壺を一緒に副葬します。 日本で古い支石墓が多く見つかっているのは、長崎県平戸市付近から福岡県糸島平野にかけての玄界灘沿岸地域です。北部九州の支石墓も、朝鮮半島と同様に、外面に赤い丹を塗った壺を一緒に副葬しています。そのため日本の支石墓は、朝鮮半島から伝わったと考えられています。 日本最古の確実な戦死者の事例だと見られている糸島市新町遺跡では、朝鮮式磨製石鏃が左大腿骨に突き刺さった男性の遺体が支石墓に葬られていました。

2023-11-25 06:14:38
高木健一 @zzTyV6vdCnkuLnm

また新石器時代の朝鮮半島の土器である櫛目文土器は、対馬や壱岐、九州北部の沿岸部からも見つかります。朝鮮半島の南海岸や島嶼部からは縄文土器が見つかります。 そのため、縄文時代から既に朝鮮半島と北部九州は交流していたと考えられています。

2023-11-25 06:17:00