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巫俊(ふしゅん)/孤竹国主 @fushunia
user.dankook.ac.kr/~oriental/Jour… 「日本列島の文明起源と交流」宮本一夫(中国考古学) 中国考古学の見地からは、日本に伝わった稲作(水稲)は、遼東半島を経由していると見るべきとのこと。
巫俊(ふしゅん)/孤竹国主 @fushunia
catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/13… 論文「ユーラシア草原地帯東部における青銅器文化の研究」(松本圭太)これを読んでたのですんなり分かりました。ソ連と中国の考古学は今に至るも統合されてないので、西アジアの青銅器文化がどうやって中国に移動したのか、よく分からなかったのですが
巫俊(ふしゅん)/孤竹国主 @fushunia
この論文によると、カスピ海の東に展開した青銅器文化は、アルタイ西麓に入ると、逆にアルタイから西に戻って伝播する(つまり、後世の中世のトルコ系鍛冶民・鉄勒がアルタイ西麓で活躍したように)とあり、地理的な関係からモンゴリアと華北に同時に青銅器文化が到達したとのこと
巫俊(ふしゅん)/孤竹国主 @fushunia
最近の中国考古学では、遼河文明、黄河文明、長江文明の3大文明という表現がされる訳ですが、長江よりも先んじて黄河が夏王朝を成立させるのも、それは西アジアの青銅器文化の移転という恩恵を受けたからにほかならないですし、遼河文明もアルタイとつながっていて、
巫俊(ふしゅん)/孤竹国主 @fushunia
しかも、遼東半島は海に突き出てることから、長江から山東半島を経由して、稲作を持つ海の民が北上してきて、遼東半島で青銅器段階の遼河文明と接触したと考えられています。
巫俊(ふしゅん)/孤竹国主 @fushunia
ちょうど、このあたりの時期(紀元前1000年紀、つまり紀元前1000年~紀元前1年までのこと)には、遼東半島に起源する漁民の文化の「支石墓」が朝鮮半島を南下していって、最終的に弥生時代早期に九州の糸島半島や長崎県などに「支石墓」が作られるようになります。
巫俊(ふしゅん)/孤竹国主 @fushunia
支石墓は、現在の国家単位では中国と朝鮮韓国と日本の3国にまたがるため、何かはっきり論じられてこなかった気もするのですが、これも明らかに「海」を生活単位にしてる人たちの移動を示しています。(他地域に出かけて、その地の人と混ざり合う「浸透」なので、人種的にはバラバラ)
巫俊(ふしゅん)/孤竹国主 @fushunia
ir.minpaku.ac.jp/dspace/bitstre… 論文「日本語の混合的特徴 ―オーストロネシア祖語から古代日本語へ音法則と意味変化―」(国立民族学博物館研究員の崎山理氏)
巫俊(ふしゅん)/孤竹国主 @fushunia
さて、日本語の起源は、長江・台湾からアジア太平洋の海洋に拡散していった「南島語」(オーストロネシア語)の話者が、大陸由来の「ツングース語」に接触したことで、両者の特徴を合わせ持つ日本語が生まれたというのが、最も有力な見解です
巫俊(ふしゅん)/孤竹国主 @fushunia
この2つの言語は、大きな国家がある時代に接触したのではなくて、先史時代段階で接触して、日本語になったとされます。そうすると、この言葉を覚えないと、舟で交易に出かけるのに「不利」だったから、みんなカタコトで覚えた。これが西日本に展開した弥生時代以前の「古代日本語」です
巫俊(ふしゅん)/孤竹国主 @fushunia
従来は、当然のように、南方の人が台湾・沖縄からやってきて、大陸からは北方の人たちがやってきたと言われてきた訳ですが、南島語は長江文明の構成集団のうち、海系の人々が話していた言葉だと考えられているので、一度、遼東半島の貝塚遺跡(大連)に北上するという動きをみせており、
巫俊(ふしゅん)/孤竹国主 @fushunia
つまり、南島語(オーストロネシア語)は、漁民たち(気まぐれに稲も持ってる)が直接、遼東半島に出かけて、遼河文明のツングース語圏に接触したのではないか?と考えることができますから、遼東から西日本にかけての海なら、どこでも日本語に似た言語が発生しうる、ということが言えます
巫俊(ふしゅん)/孤竹国主 @fushunia
実際、時代は下りますが、『後漢書』には、遼東に「倭人」という漁民がいて、鮮卑の捕虜になったと出てくる訳で、ただ、これは原史料に「シ于人」(うじん)とあるのを、『後漢書』が倭人と解釈したと見られている訳ですが、
巫俊(ふしゅん)/孤竹国主 @fushunia
倭人というのが、舟の民のことで、古代の日本語で舟のことを「ワニ」(和邇)と呼んだことを思い出せば、「わー」という言葉が舟のことで、倭人は「舟人」という意味の言葉の漢語音表記かもしれません。
巫俊(ふしゅん)/孤竹国主 @fushunia
『三国史記』の旧高句麗領地名に日本語地名があることから、朝鮮北部の穢人(わいじん)の言語は日本語に近かったのでは?と朝鮮音韻学の本にも書かれています。中世の朝鮮語では、「倭」と「穢」は同じ音であるとの指摘などがありました。
巫俊(ふしゅん)/孤竹国主 @fushunia
いずれにしても、先史時代の段階で、遼東、朝鮮半島西海岸、西日本と、おおまかに似たような言葉が「通じる」交易の民の舟の言葉みたいなのがあったとすれば、それがのちには、ただ日本語だけが残ったと、そういうことなのではないでしょうか。

【2016年2月13日追記】(書き手:巫俊)

このまとめ記事が作成された後、
新刊の篠田謙一『DNAで語る 日本人起源論』(岩波現代全書)
などを読みました。
ミトコンドリアDNAの変異率から世代数と人口が推定でき、
日本人の祖先は(人口に占める割合の一番大きなD4遺伝子が大幅に人口増加をするので)、
5000年前から人口が急激に増加しているが、
この時期から縄文時代は人口減少期にあたり、
日本列島の外で、稲作により人口増加していったと示唆されています。
また、日本人と韓国人のY染色体DNAの3割は、稲作文明の長江文明由来です。

それと、まとめ記事の中で、「ワニ」(舟)という言葉についてツイートしていますが、倭人の名前と結び付けるのは、疑問があるかもしれません。

このことを考えるきっかけになったのは、『韓国語音韻史の探求』
(福井玲、東京大学教授、言語学者、三省堂、2012年出版)です。
言語学の上では、日本語と同系統の「穢(わい)語」が朝鮮半島中部の山岳地帯に存在していたと見られるとあります。
漢字音と現地語での訓を併記した史料があり、音も訓も一致することから、日本語と同系統だと示されています
(日本語と沖縄方言(沖縄語)の音韻が微妙に異なるように、この言語も微妙に異なる)。

従来の考え方では、朝鮮半島中部の山岳地帯に、日本の「サッポロ」や「クシロ」の感覚で使用された別言語の地名があることを説明できません。
そうすると、これは稲作伝来時に日本列島に渡来した集団とは別に、日本列島には移動せず、のちの漢代に朝鮮半島北部や中部の勢力として登場する「穢(わい)人」だと考えられます。
考古学的にも、この山岳地帯は朝鮮半島の三国時代まで穢人の居住地でした。
上の本の中では、中世の韓国語で、穢と倭が同じ発音で呼ばれ、自国の南北に接する別系統の集団だと認知されていたことが、分かっているそうです。

稲作文明の長江文明と、
カスピ海からシベリアを経由して、早期に中国東北地方(旧満州)に流入してくる青銅器文化の存在(弥生銅剣のルーツ)。
この2つの要素から、考古学的に「移動」の形跡を追っていくことで、
「南」から移動してきた人たちが、「北」で青銅化して活況を呈した「遼東半島」に到着し、
朝鮮半島から日本列島に移動していくまでに、「日本語」が生まれた。日本語「海の民の言語説」を考えるようになりました。

国家形成前の先史時代ですから、舟で移動する人が常に流入してくる沿岸部には、交易に便利な「沿岸の言語」が話されていたことだと思います。そのなかに「日本語」がありましたが、陸上に国家が生まれる時代になると、沿岸の言語は衰えていき、海を隔てた日本列島にのみ、たまたま「日本語」が残ったと考えられます。

九州の縄文晩期の人口1~2万人未満に対して、弥生渡来民の数xが渡来し、縄文と弥生渡来両方の遺伝子が半々ほどの割合で残っています。弥生早期には、やや渡来は少なめで、弥生前期の渡来が多いです。

ポイントは、青銅剣などの武器が弥生前期末~中期にならないと登場しないことで、渡来してきた弥生渡来民は、武器が無かったために、在来人と平和共存を余儀なくされ、武器が大陸からもたらされた頃には、両者は考古学的に(住居の型式から)融合しているので、縄文系だけが殺害されて遺伝子が消えることが無かったようでした。

朝鮮半島では、陸つづきであることと、武器がやや早いことから、殺戮によって、ある遺伝子が大幅減少していることが分かっているようです。

コメント

巫俊(ふしゅん) @fushunia 2016年2月13日
まとめを更新しました。情報を大幅に追加しました。「日本人の起源」について。日本語は先史時代の「海の民」の言語で、弥生渡来民とともに日本列島に移動してきた!?
叔嗣(しゅくし) @korekorebox 2016年4月18日
最近は、遺伝子調査にて日本にわたってきている稲には朝鮮半島には存在しないDNAを持つ稲の存在が確認され稲作文化が朝鮮半島を経由していない説も多くなってきています。それと紀元前3500年より以前の紀元前4000年にも稲作が行われていた可能性が確認されているそうです。
巫俊(ふしゅん) @fushunia 2016年4月25日
紀元前4000年というのは、焼畑農耕の陸田稲作のことですね。よく誤解されてるのですが、弥生早期の「稲作伝来」と呼ばれているのは灌漑式の水路を利用した農耕コンプレックス(複合体)の伝播を指していまして、おっしゃっている初歩的なコメ農耕とは区別されているようです。それまでの縄文農耕は「園耕」と呼ばれいて、多数の食料源のひとつとしてアワやコメを栽培していたようです。  korekorebox
巫俊(ふしゅん) @fushunia 2016年4月25日
出土イネのDNAについては、土器の出土に比べてイネDNAの検出数がごく限られており、まだ何とも言えない段階だと思います。考古学的には、記事の中にリンクした「日本列島の文明起源と交流」(宮本一夫)で明らかにされているように、長江から海岸沿いに北上した水田稲作(水路式)の民が、遼東半島を経由して朝鮮半島、日本列島へと移動してきたものでした。 korekorebox
巫俊(ふしゅん) @fushunia 2016年4月25日
「稲作文化が朝鮮半島を経由していない」という説は、考古学の成果を無視した偏狭な説で、信じるに値しないと思います。「土器」がヒトの移動を示すのに対し、イネDNAの移動はそれが大海の漂流であっても列島へと伝わるのですから、検出結果が異なるのは当然だと思います。また、沿岸移動ではなく、大陸からの直接渡海も少数ですがあったようです。 korekorebox
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