エルザ氏による、イギリスの道路の父、盲目のジョン・メトカーフについて

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エリザ @elizabeth_munh

いんたーねっとRAFちゃんねる

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白杖をついた男が街路を進む。やがて彼に馬車が追いつき、中から声が掛けられた。 「ハロゲイトに行く気かい? 丁度私も行くところなんだ。よければ乗って行くかい?」 紳士の申し出に男は少し考えた後、首を振った。 「歩いて行った方が早いですよ」 紳士は面食らった。何せ男の目は閉じられていて、盲目なのは明らかだったのだから。 彼の名はジョン・メトカーフ。通称を『ブラインド・ジャック』。 後にイギリス道路の父の一人と呼ばれる男だった。

2023-12-07 19:47:27
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エリザ @elizabeth_munh

メトカーフはイングランド北部、ヨークシャーの温泉地、ナレスボロの貧しい馬飼いの息子で、納屋で生まれた。 4歳の頃に学校に入ったものの、6歳の頃に天然痘が辺りで猛威をふるい、何とか生き残ったものの、代わりに視力は永遠に失われてしまった。 「可哀想に、こんな幼く……」

2023-12-07 19:47:31
エリザ @elizabeth_munh

何をやっても視力は戻らず、両親はメトカーフを哀れんだものの、メトカーフはやがて順応し、やがて家から町の端まで歩いて戻って来れるように、そして遂には町を隈なく記憶し、どこでも平気で歩き回ったり走る事が出来るようになった。 「目なんか見えなくても、関係ないや」

2023-12-07 19:47:31
エリザ @elizabeth_munh

彼には特異な才能があり、目に見えずとも心の中に感じ取った周囲の地形や動物や人間を正確に映し取る事が出来た。やがて彼は乗馬を学び、借りた猟犬と共に狩を積極的にやるまでに地形把握を研ぎ澄ませる。少年時代は悪童達のリーダーであり、誰よりも早く走り、平気で飛んだり跳ねたりした。

2023-12-07 19:47:31
エリザ @elizabeth_munh

視覚障碍者にできる仕事は少ないと両親が彼にフィドル(ヴァイオリンの英名)を覚えさせると、音楽にも才があったメトカーフはたちまち町1番の弾き手となり、観光客相手のガイドと音楽、そしてカードゲームの指し手としてお金を稼ぐようになる。外から来た人間は彼が視覚障碍者とは思わなかった。

2023-12-07 19:47:32
エリザ @elizabeth_munh

外向的な性格で陽気なエンターテイナーである彼は女性にもよくモテた。町の名士の娘ドリーとメトカーフは恋仲になる。しかし彼女の親は頑としてこれを認めなかった。 「目が見えないのでは、娘を任せられない」 メトカーフは怒った。 「目が見えるからって何だ。それこそ見てろよ」

2023-12-07 19:47:32
エリザ @elizabeth_munh

メトカーフはロンドンまで歩いて旅をして、ジグやリールを演奏する流しのフィドラーとして生計を立てる。そこらの人間よりよほど稼げる事を彼は証明した。 そうして故郷に帰る道、今度もまた徒歩だったところ、メトカーフは馬車でヨークシャーに向かう庶民院議員のリデル大佐から声をかけられる。

2023-12-07 19:47:32
エリザ @elizabeth_munh

ついでに乗って行っては、と言う好意からの申し出に、メトカーフの中で悪戯心が芽を出した。 「道路状態が悪いので、きっと歩いて行った方が早いですよ」 リデル大佐は驚き、ややムッとした。 「そりゃ道だって悪いが、こっちは馬車だし、あなたは目が不自由ではないか」

2023-12-07 19:50:06
エリザ @elizabeth_munh

「なら、賭けますか?」 ギャンブラー気質のメトカーフにリデル大佐は面白いと乗り、1ギニーを自分の勝ちに賭けた。 「なら、私は10ギニーで」 メトカーフは自分の勝ちに10倍賭け、馬車対盲目の旅人の競争が始まる。 メトカーフの言う通り道路は大変悪く、リデル大佐は何度も立ち往生した。

2023-12-07 19:52:38
エリザ @elizabeth_munh

対するメトカーフは持ち前の地形認識能力で荒れた道を目が見える人以上にすいすいと進み、馬車より早くハロゲイトに到着した。リデル大佐は感服し、メトカーフを讃える。 「……確かに勝てるとは思っていたが、馬車より盲人の方が早いのはどう考えてもおかしい。とんでもない道路だ……」

2023-12-07 19:55:48
エリザ @elizabeth_munh

メトカーフの中に古代ローマ帝国以来放置され放題の道路に対する問題意識が持ち上がる。当時、道路の補修は各地域の住民達の無償の義務であり、嫌々やってるにすぎない補修は杜撰で、雨でも降ろうものならたちどころに崩壊して通行不能に陥った。

2023-12-07 19:59:27
エリザ @elizabeth_munh

「雨が問題なら、水捌けをよくすればいいのに、何故やらない?」 目が見えないからこそ、それ以外の全ての感覚で全体的に地形と言うものを捉えるメトカーフには克服すべき問題点は明らかに見えた。とは言え、この時はただ故郷に急いで帰るのみとなる。

2023-12-07 20:01:21
エリザ @elizabeth_munh

帰ってきたメトカーフは重大な知らせに驚く。相思相愛の仲のドロシーが親の決めた相手と結婚させられそうになっていた。メトカーフがどれだけ稼げる事を実証しても、飽くまで視覚障碍者に娘をやる気は両親にはなかった。 怒ったメトカーフはドロシーに会って意思を確かめると、駆け落ちする。

2023-12-07 20:03:03
エリザ @elizabeth_munh

周りの援助を当てにできないメトカーフは商売を始め、荷馬車を買うと魚を街まで運ぶ運送業を始める。しかしここでも悪い道路事情が祟って結局彼は流しのフィドラーとして生計を立てざるを得なくなった。 「忌々しい道路め! ここさえ少しはまともなら!」

2023-12-07 20:06:20
エリザ @elizabeth_munh

メトカーフは副業として密輸貿易を始めるも、ここでもやはり道路が足を引っ張る。ここにきてメトカーフは道路の改善に対して強く意識するようになった。 「粗悪な道路が経済活動の邪魔をしている。そして、私ならばもっと上手く、道路を直せるはずだ」 こうして視覚障碍者が悪路に立ち向かう。 twitter.com/elizabeth_munh…

2023-12-07 20:10:57
エリザ @elizabeth_munh

ブリテン島西端、アーサー王生誕の地コーンウォールには一風変わった名前の土地がある。その名もプロイセン入江。 なんでイギリスにプロイセンがと思うけど、これはここを根城にしてた密輸業者に由来する。 pic.twitter.com/JrHZv39X0W

2022-10-08 06:44:53
エリザ @elizabeth_munh

イギリス政府もまた、粗悪な道路に悲鳴をあげていた頃だった。自らではどうにもならぬと補修を諦めたイギリス政府は道路の整備と維持運営を民間委託し、ターンパイクトラストが設立される。 有料の代わりにその収益で道路を整備する事が期待されたものの、当初、成果は捗々しくなかった。 twitter.com/elizabeth_munh…

2023-12-07 20:13:46
エリザ @elizabeth_munh

17世紀、イギリスの道路はボロかった。 道路の整備と維持運営には不断の努力と巨額のお金が要る。ただでさえ辺境の二流国なのに、内戦を終えたばかりのイギリスにそれをなんとかするだけのお金がある訳がなかった。 こうして導入されたのが、ターンパイク。 pic.twitter.com/HajSw3yP84

2023-01-20 20:17:31
エリザ @elizabeth_munh

ここに手を挙げたのがメトカーフで、彼は自ら有望な道路を求めて歩き回り、彼に忠実な400人の業者に声を掛け、彼らを自らの目として道路の整備に臨んだ。 「道路が崩壊するのは雨によってだ。故に、凸状の水捌けの良い道路を作り、乾燥しやすさを重視せねばならない」

2023-12-07 20:16:26
エリザ @elizabeth_munh

不可能と言われた沼沢地にも橋をかけ、メトカーフは300キロにも及ぶ長大なターンパイクを作り上げる。 産業革命期における初めての実用道路はイギリス中を瞠目させ、メトカーフの道路を模範として道路の改良が進み、徒歩より遅かった馬車は年を経る毎に速度を上げ、陸路は大いに繁栄した。 twitter.com/elizabeth_munh…

2023-12-07 20:20:58
エリザ @elizabeth_munh

ロイヤルメールはイギリスの郵便社。 現在は日本同様民営化されてるけど、かつては政府公社であり、それ以前は政府機関で、郵政省だった。 その歴史は古く1516年、時の英国王ヘンリー8世が設置したのが始まりで、この頃はロイヤルメールの名の通り、国王の文書を送達する事が役目だった。 pic.twitter.com/aT7jDp7F76

2023-02-01 18:14:51
エリザ @elizabeth_munh

メトカーフはターンパイクを通じて巨万の富を得るものの、それでも何か新しい事をやらねば気が済まず、晩年は自分の人生を記録に残すためにヨークまで歩き、そして92歳で4人の娘、20人の孫、90人の曾孫を残して大往生を遂げる。 彼の残した道路は近代的な道路の基礎となった。

2023-12-07 20:27:16
エリザ @elizabeth_munh

彼の後にイギリス道路の父と讃えられたテルフォードと比べると彼は地味な存在であり、比較的知名度は少ない。 しかし、視覚障碍者であるにも関わらず、旅に、ギャンブルに、音楽に、運送や犯罪、建設、そして恋にと波瀾万丈な人生を過ごしたメトカーフは今でもヨークシャーの誇りとなっている。 彼を襲った暗闇は、輝かしい彼の人生を覆うには余りにも小さなものに過ぎなかった。

2023-12-07 20:30:29
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