悉若無の幻想哲学講義 ヴィトゲンシュタインから幻想郷へ①
- L_O_Nihilum
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リンゴは赤い 赤いはリンゴ 丸いもリンゴ 甘いもリンゴ リンゴは赤い、私のなあに? こんばんは、しゅーにゃんです。 現代思想をふれていると王様がこいしい、哲学者見習いです。
2011-12-13 20:57:23{予告} 話をしよう。1+1=2.ありふれたことだ。誰でもわかる普遍的な事実である。しかし、僕はココがすごく重要だと思う。よく聞いてほしい。1+1は2、つまり1に1を加えると2であるのだ。あたりまえである。
2011-12-13 21:06:27しかし、どうだろうか。では問題。「1+1=2」。さて、1+1は「2になった」のか?違う。どういうことか? さて、ヒントをあげよう。 ずばりコレがヒントである。『1+1=2』。この式をよく見て、よく読んでくださいな。そうしたら、こいつの意外な側面がわかるのだ。
2011-12-13 21:08:42幻想とは差延?幻想とは現象? 幻想について語ることは語りえぬことである。よって沈黙するしかない。そういうことになる。ちなみに。「幻想郷は幻想である。」←この命題自体が「うそ」。
2011-12-13 22:21:52幻想郷≠幻想。その実例は、魔理沙にこれ言わせてみてください。「現実問題、これはXだな」…この「現実問題」とは、どこのことだろうか。魔理沙にとっての現実は、この世ではなく、幻想郷であるはず。なぜなら、魔理沙にとって「この世(現実)」とは「幻想郷」だから。【幻と実体の境界】
2011-12-13 22:24:09幻想郷ではこの2つが【私たちのこの世界に対して】反転している。①常識/非常識 ②幻/実体
2011-12-13 22:24:57つまり、ここでの常識は向こうでの非常識。ここでの非常識が、向こうの常識。また同じように、こちらで幻(幻想)になったものは向こうで実体(現実)となり、こちらで実体になったものは、向こうでは幻(幻想・夢)になる。
2011-12-13 22:26:22さて閑話休題、ウィトゲンシュタイン。1+1=2だが、これは、とどのつまり「1+1”は” 2 ”である”」と言っている。ということは、1+1は2に「なっていない」。1+1、それ自体がすでに2になったのである。
2011-12-13 22:28:31何気なく計算問題をしていた方々へ。一つ忘れていないだろうか。僕も今の今まで忘れてたしこれからも忘れることだけど、足し算は「足していない」。だって=(イコール)なんだもの。すでにそうであることを反復しているだけです。
2011-12-13 22:29:36計算問題、というなかで僕らは計算を計算しています(この言い方重要www)。計算問題を解く、ということは、計算を計算すること…あれ計算って言葉もう使っているねぇ…あれれ、計算することっていうアクションは・・・(伏線)
2011-12-13 22:30:38さて、と。このことを踏まえて、「証明」の問題をやってみようと思う。なぁに、僕は理系じゃないので、言葉で証明をやる。いや、「証明ごっこ」と言うべきか。
2011-12-13 22:34:36では、「ソクラテスは死ぬ」。なぜ死ぬのでしょうか。ソクラテスが死ぬこと(可死的)であることを証明してみましょう。まず、ソクラテスは人ですね。人は死にますね。人が皆死ぬ存在であるから、人であるソクラテスは死にます。そういうことです。簡単です。
2011-12-13 22:36:26(これからの話はもう数学でも当てはまります よければ別の数学のなんかの証明でも使って以後の話をあてはめててください)(いいのかそれw )
2011-12-13 22:37:09さて。 今の理論を整理してみます。なぜ、ソクラテスが死ぬ存在だと解ったんでしょうか。言い換えて、ソクラテスが死ぬ存在であると言える条件はこの理論のどこでしょうか…?
2011-12-13 22:38:26これは「人間が死ぬという事」←これではありませんか? 「人間が死ぬという事」が事実であるから、この「人間が死ぬ」の「人間」の一部であるソクラテスは、死ぬわけですね。「人間」という条件に入りますから。
2011-12-13 22:39:44こんなことを、僕達は、「だから」という言葉を使って表現します。つまり、「ソクラテスは人だから死ぬ。」もしくは、「人は死ぬからソクラテスは死ぬ。」このように、「物事(命題と言います)」を確実にさせる一番最初の理論の土台(『人は死ぬ』がコレ)を、大前提と言いますが、
2011-12-13 22:41:38この「大前提」なしには、如何なる理論も成り立ちません。数学もそうです。数学は、この「大前提」の役割をしてくれるものを「定理」や「図形や式からわかること(仮定から、っていうときの仮定ってコレでしょ)から導いていたはずです。
2011-12-13 22:42:35こうした、「実証(身の回りのもので確かめるコト)」をせずに理論だけで正しさを考える思考のことを、推論とか、とどのつまり「証明」っていうわけです。難しい言葉で言えば、「演繹法」とか「アプリオリな総合」とか、所謂「超越論」も似たようなもんです。
2011-12-13 22:44:14哲学も数学も、こういうものを使っている点では共通です・・・いや、そもそも「ナントカ学」として「学」やるからには、大抵…いや全部の学問が、このやり方を持っています。(っていうとインド論理学の三支作法とかどうすんのって話になりますがここでは置いといて)
2011-12-13 22:45:44で、本題はココから。ではその「推論」や「計算」や「演繹」「証明」に必要なもの…つまり「だから」って、どう使うんだったっけ?「ソクラテスは人が死ぬから死ぬ。」このさい、「ソクラテス」ってやつは、死ぬやつである「人」の内側?外側?
2011-12-13 22:49:01ところで「AならばB」っていう推論もあります。これは「だから」の手前ですね。その「だから」を与える命題を作るタメの、命題の素、です。たとえば「人ならば死ぬ」。こうも言えます。「土浦市なら茨城県の中である」。
2011-12-13 22:50:47では、「死ぬならば人である」とは、言えますか?これは、言えません。いや、言えるように見えるけど、死ぬのは人だけではないですね。犬だって馬だって死にます。つまり、逆は在りえないんです。「リンゴは甘い」けど「甘いはリンゴ」っていうのは決めつけです。
2011-12-13 22:51:59茨城県と土浦もそうだ。「土浦市ならば茨城県である」は言えても「茨城県は土浦市である」は言えない。いや、言えるんだけど、それは空虚となる。…気づいた人もいると思うけど、「AならばB」とやると、AよりもBは外側になってしまう。
2011-12-13 22:53:23