日本三大怨霊 崇徳上皇の生涯をまとめてみた

第75代崇徳天皇の生涯と纏わる史跡をまとめました。使用している写真は投稿者が2018年.2022年.2023年に現地を訪ねて撮影したものです。
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ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

1164年9月14日(長寛2年8月26日)崇徳天皇が配流先の 讃岐国(現:香川県)で亡くなりました。享年46。 母は中宮・藤原璋子(待賢門院)74代鳥羽天皇の第一皇子で75代天皇。 譲位後は保元の乱で77代後白河天皇に敗れ、讃岐に配流後は讃岐院とも呼ばれました。 #保元の乱 #日本三大怨霊の一人 pic.twitter.com/L4lHu4bdqj

2023-09-14 13:30:00
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崇徳天皇は今日まで在位した天皇の中でも、辛く悲しい人生を送った天皇だといわれています。 数え年5歳で天皇に即位しますが、これは父・鳥羽天皇の祖父・白河法皇の意向でした。 実は崇徳天皇はこの白河法皇と母・璋子の不義の子だと考えられ、鳥羽天皇からは疎まれていたのです。 pic.twitter.com/gxp8hiJsYr

2023-09-14 15:47:23
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1119年7月7日(元永2年5月28日)崇徳天皇は鳥羽天皇と藤原璋子との間に生まれますが、璋子は何かと評判の悪い女性だったようです。 璋子は白河法皇の養子として育ち、その美貌から白河法皇とは愛人関係にあったといわれていたからです。 白河法皇はその璋子を自分の孫の鳥羽天皇に嫁がせました。 pic.twitter.com/5ke0K1igoa

2023-09-14 15:47:24
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その真偽は不明ですが、少なくとも鳥羽天皇は息子である崇徳天皇を【叔父子】と呼んで生涯忌み嫌っていたようです。 1123年3月(保安4年2月)崇徳天皇は数え5歳(満3歳7か月)で即位します。 しかし、この即位には祖父・白河法皇の意向が強く働いていました。 pic.twitter.com/zOlGBVrimf

2023-09-14 15:47:25
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白河法皇は天皇家の長老として、崇徳天皇を後見する事で権力を振るおうと考えます。 これに納得出来なかったのが譲位したばかりの鳥羽上皇です。自身が天皇だった時、鳥羽上皇は院政を敷く白河法皇の言いなりでした。 自身が上皇になれば、次はようやく自分が院政を敷けると思っていたのです。 pic.twitter.com/JidhUVJ6wm

2023-09-14 15:47:25
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ところが自身が上皇となった後も引き続き白河法皇が権力を握り続けた為、鳥羽上皇は天皇・上皇を通じて自ら何も出来ず、己の無力さを痛感します。 そういった経緯から鳥羽上皇は白河法皇を快く思っていませんでした。さらに厄介だったのは藤原璋子との噂です。 pic.twitter.com/QFnzyk62VW

2023-09-14 15:47:27
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しかし、1129年7月24日(大治4年7月7日)に白河法皇が亡くなると状況は一変します。邪魔だと思っていた白河法皇が亡くなり、鳥羽上皇は院政を行えるようになったからです。 1134年(長承3年)鳥羽上皇は疎ましく思っていた藤原璋子を退け、藤原得子を寵愛するようになります。 pic.twitter.com/gca9jOl6Pe

2023-09-19 12:33:43
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2012年にNHK大河ドラマ「平清盛」で放送された役柄で整理すると 白河法皇...伊東四朗  鳥羽法皇...三上博史 藤原璋子(待賢門院)...檀れい 藤原得子(美福門院)...松雪泰子 崇徳上皇...井浦新 後白河法皇...松田翔太 近衛天皇...北村匠海 二条天皇...冨浦智嗣

2023-09-19 15:45:41
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得子の間には1136年1月(保延元年12月)に叡子内親王を、1137年4月(保延3年4月)に暲子内親王を、1139年6月(保延5年5月)に待望の皇子・体仁親王(後の近衛天皇)が誕生します。 鳥羽上皇は白河法皇の影がちらつく崇徳天皇を譲位させ、体仁親王を即位させようと考え始めます。 pic.twitter.com/Ju4c0u5nNY

2023-09-19 15:45:42
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この時、崇徳天皇は20歳で息子・重仁親王も居ましたがこの案は到底受け入れられるものではありません。 崇徳天皇は自分の子を即位させ、自ら院政を敷いて権力を握りたいのです。それはかつて鳥羽上皇が白河法皇に思った事と同じでした。異母弟の体仁親王が即位した場合、崇徳天皇は院政を敷けません。

2023-09-19 15:45:43
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そこで鳥羽上皇は、一計を案じます。 生まれて間もない体仁親王を崇徳天皇の養子にしてしまったのです。体仁親王が崇徳天皇の養子になれば、崇徳天皇も譲位する気になるはず、と考えたのでした。 崇徳天皇はこの鳥羽上皇の案を受け入れ、体仁親王への譲位を決めます。

2023-09-19 15:45:43
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1141年(永治元年12月7日)譲位の儀式が行われますが、儀式当日に事件が起こります。 崇徳天皇は養子になった体仁親王に譲位するはずでしたが、鳥羽法皇の謀略によって『崇徳天皇は弟の体仁親王に即位する』という形で儀式が行われてしまったのです。 pic.twitter.com/FIWNP7CBve

2023-09-19 15:45:43
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院政は父や祖父という立場から天皇をフォローする仕組みで、弟が天皇になってしまうと兄の崇徳天皇は院政を敷く事は出来ないのです。 この状況で院政を敷けるのは体仁親王の父である鳥羽上皇だけでした。こうして体仁親王が近衛天皇として即位すると鳥羽院政の時代がやって来ます。 pic.twitter.com/i2LVZa5icZ

2023-09-19 15:45:44
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一方で、策略に嵌った崇徳上皇は政治の実権を完全に失いました。 やがて現実世界に絶望した崇徳上皇は、次第に和歌の世界へ逃避するようになります。 和歌の世界ではとても人気があったようで、崇徳上皇にとって和歌は唯一の楽しみでした。

2023-09-19 15:45:45
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ところが、1155年8月22日(久寿2年7月23日)に近衛天皇は17歳の若さで崩御すると再び、皇位継承問題が浮上します。 当時、崇徳上皇には美福門院の養子となった重仁親王という息子が居て次期天皇最有力候補でした。 しかし、美福門院にはもう1人の養子の守仁親王(後の二条天皇)が居たのです。 pic.twitter.com/htDP3QMAgm

2023-09-22 02:36:18
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結局は鳥羽法皇の意向により、この守仁親王が即位するまでの中継ぎとしてその父・雅仁親王が立太子しないまま 29歳で後白河天皇として即位する事になったのです。 後白河天皇は鳥羽法皇と藤原璋子(待賢門院)との間に生まれた第4皇子で、崇徳上皇の弟です。 pic.twitter.com/hVriFWviUy

2023-09-22 02:36:19
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しかし、再び崇徳上皇に好機が巡って来ました。1156年7月20日(保元元年7月2日)崇徳上皇を陥れて来た鳥羽法皇が亡くなったのです。 鳥羽法皇の後ろ盾を失った後白河天皇は、崇徳上皇の復権を恐れます。そこで、後白河の側近だった信西(藤原通憲)は謀略によって崇徳上皇を追い詰めようと考えます。 pic.twitter.com/1Kggznw1NH

2023-09-22 02:36:20
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折しも平安京では【崇徳上皇は失脚した摂関家の藤原頼長と何かを企んでるらしい】という噂が流れていました。 ここで出て来た「藤原頼長って誰やねん!」と思われる方も居ると思うので💦次の話に入る前に、藤原家について少し触れておこうと思います。

2023-09-22 02:36:21
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藤原氏は、大化の改新で活躍した中臣鎌足が天皇から藤原姓を賜った事から始まります。 鎌足の子・藤原不比等は701年(大宝元年)に制定された大宝律令の編纂に参加。娘を天皇に嫁がせ、その外戚(母方の親戚)の地位を得ました。 pic.twitter.com/AC15SoVy8e

2023-09-22 02:36:21
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不比等の4人の息子で武智麻呂・房前・宇合・麻呂はそぞれ南家・北家・式家・京家を開きます。 825年(天長2年)北家の冬嗣が左大臣になると、続く良房が最初の摂政、基経が最初の関白となり以後北家一族で高位高官を独占する摂関政治の基礎が築かれました。 pic.twitter.com/nFDSha4Uo2

2023-09-22 02:36:22
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娘を次々と天皇に嫁がせ「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 虧(かけ)たることも なしと思へば」という和歌を詠み、権力を欲しいままにした藤原道長も北家の血筋にあたります。 ところが1086年(応徳3年)藤原氏を外戚に持たない白河上皇の院政が始まると、藤原氏の権勢に陰りが差します。 pic.twitter.com/Vtsz3bFxT8

2023-09-22 02:36:23
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この頃、摂政と関白を務めていたのが藤原北家の藤原忠実でした。 1120年(保安元年)忠実は白河法皇の意に反して娘の泰子を鳥羽天皇の后にしようと画策しますが白河法皇の怒りに触れ、関白の座を追われてしまいました。 翌1121年(保安2年)父・忠実の後任として関白となったのが長男の忠通です。 pic.twitter.com/3HCQaHNUTv

2023-09-22 02:36:23
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ところが、忠通が関白になると父・忠実はその役職を辞退しない忠通を妬み、忠通の弟で次男の頼長を可愛がるようになります。 1123年(保安4年)崇徳天皇が即位すると、忠通はその摂政となり、1129年(大治4年)には関白に昇進。 その後も近衛・後白河と3代に渡り、37年間も摂政・関白を務めました。

2023-09-22 02:36:24
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2012年にNHK大河ドラマ「平清盛」で放送された役柄で整理すると 崇徳上皇...井浦新 後白河法皇...松田翔太 近衛天皇...北村匠海 二条天皇...冨浦智嗣 藤原忠実...國村隼 藤原忠通...堀部圭亮 藤原頼長...山本耕史 信西(藤原通憲)...阿部サダヲ ※藤原南家

2023-09-22 18:23:53
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藤原頼長は摂関家の御曹司として生まれました。忠実の次男で忠通は腹違いの兄にあたり、23歳も歳が離れていました。 大変な努力家で、牛車の中にまで書物を備えたり船で雷雨に遭っても平然と読書していたそうです。 24歳までに1030巻の書物を読破した事で「日本第一の大学生」と讃えられました。 pic.twitter.com/9sd06czKb4

2023-09-22 18:23:54
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