日本三大怨霊 崇徳上皇の生涯をまとめてみた

第75代崇徳天皇の生涯と纏わる史跡をまとめました。使用している写真は投稿者が2018年.2022年.2023年に現地を訪ねて撮影したものです。
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ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

和歌は苦手だったようですが、その類まれなる学才は「日の本一」と称され左大臣に昇ります。 しかし、妥協を許さない性格で他人の失敗に対しても厳しく追及し厳しく罰していた様です。 忠通には長い間、実子が無かったので1125年(天治2年)に頼長を養子とし、嫡子として遇していました。

2023-09-22 18:23:54
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ところが、1143年(康治2年)に実子の基実が生まれると状況は一変します。 忠通は頼長との養子縁組を解消し、基実に後を継がせようと考えたのです。 約束を反故にされた頼長は激怒し、摂関の職に固執するようになります。 pic.twitter.com/wc3itJOTIJ

2023-09-22 18:23:55
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一方、白河法皇に嫌われ、地位を追われていた忠実は篭居中に生まれた頼長を偏愛していました。 1150年(久安6年)忠実は摂政の職にあった忠通に頼長にその職を譲る様、迫ります。 忠通が断ると忠実は激怒、藤原氏の当主の座を頼長に譲った挙句、忠通が務める筈だった内覧の地位まで強引に奪います。

2023-09-22 18:23:55
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その後、忠実は忠通と親子の縁まで切ってしまいました。 強引に内覧になった頼長は律令を昔に戻し、世の中の不正を厳しく取り締まる政治改革を始めます。 衰退した朝廷儀式を復興し、藤原摂関政治の全盛期を蘇らせる事が頼長の夢でした。 pic.twitter.com/MfDCH3p8HN

2023-10-05 13:51:10
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しかし、大義名分を重んじる頼長の政治は不評でした。 1151年(仁平元年)鳥羽法皇の寵臣・藤原家成の邸宅を破壊する事件を起こすと、1152年(仁平2年)仁和寺境内に検非違使を送り込み、僧侶と騒擾。 1153年(仁平3年)石清水八幡宮に逃げ込んだ罪人を強引に追捕しようとしての流血事件や pic.twitter.com/Ppd9PFDa3o

2023-10-05 13:51:12
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同年6月に上賀茂神社境内で興福寺の僧を捕縄する騒ぎを起こすなど時間厳守を謳い、遅刻者は容赦なく罰しました。 また、犯罪が減刑される慣習を嫌って私的に暗殺・襲撃など報復を繰り返したのです。藤原家成は鳥羽上皇の寵臣だった為、鳥羽上皇からの信任を失い、 pic.twitter.com/CiumTjQpiw

2023-10-05 13:51:13
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実際の政治の仕組みを無視した事で貴族の反発に遭い、近衛天皇からも嫌われてしまいます。 1155年(久寿2年)近衛天皇が亡くなると、忠実・頼長父子が崇徳上皇の子・重仁親王を皇位につけようと近衛天皇を呪い殺したという噂が広まります。 この一件で2人は政界から追放されてしまいました。

2023-10-05 13:51:14
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1156年7月26日(久寿3年/保元元年7月8日)信西(=藤原通憲)は、この噂から藤原頼長が謀反人だと決めつけ頼長の邸宅に軍を送り込み、その邸宅を奪います。 頼長の内覧は停止され、全ての財産まで後白河天皇に没収されてしまいます。その後、後白河天皇の関白には兄の忠通が就きました。

2023-11-16 02:34:32
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翌7月27日(7月9日)の夜中、この騒動に動揺した崇徳上皇は住まいとしていた鳥羽田中御殿を少数の側近と共に脱出。洛東白河にある妹・統子内親王の御所に押し入りました。 pic.twitter.com/gf6Q12JMv8

2023-11-16 02:34:33
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崇徳上皇は 「頼長に謀反の疑いがかかったのであれば、次は自分にも何か疑いをかけられるのではないか。 それならば、いっそ自分も頼長と組んで政権を後白河天皇から奪って今こそ悲願(院政)を実現する時では」 と考えるようになります。しかし、これこそが信西(=藤原通憲)の狙いでした。

2023-11-16 02:37:30
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後白河天皇に敵対する勢力を削ぐ事が信西の本当の目的だったからです。 生前、鳥羽法皇は崇徳上皇と頼長の動きに不安を感じ亡くなる前に源平の有力武士だった平清盛・源義朝に内裏の警備などを命じていました。 pic.twitter.com/IzLej2Dykx

2023-11-16 02:37:31
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そうした経緯もあって、鳥羽法皇が亡くなると後白河天皇方は有力な武士を味方に引き入れる事に成功します。 こうした後白河方の動きに崇徳上皇側は出遅れてしまい、源為義・為朝父子(義朝の父と弟)や平忠正(清盛の叔父)などの武士を集める事は出来ましたが、戦力の差は歴然としていました。 pic.twitter.com/qQORZhVeeb

2023-11-16 02:37:31
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2012年にNHK大河ドラマ「平清盛」で放送された役柄で整理すると 崇徳上皇...井浦新 後白河天皇...松田翔太 藤原頼長...山本耕史 信西(藤原通憲)...阿部サダヲ 平清盛...松山ケンイチ 平忠正...豊原功補 源為義...小日向文世 源為朝...橋本さとし 源義朝...玉木宏

2023-11-16 02:37:32
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それでも、崇徳上皇方は白河殿に軍勢を集結させます。7月28日(7月10日)には大炊御門大路(現:竹屋町通)に面した西の門に源為朝を、鴨川に面した門には源為義を配備して護りを固めました。 この段階で、為朝は後白河天皇方に夜襲攻撃をかける事を提案します。

2023-11-16 02:53:24
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しかし「天皇・上皇の戦はもっと堂々とやるべきだ」と主張する頼長に反対されてしまいます。 同じ頃、高松殿(現:姉小路通)に本拠を定めた後白河天皇方も戦の計画を練っていました。 その席で大将に任じられた源義朝が弟と同じ夜襲を提案すると、天皇方はこれを採用しました。

2023-11-16 02:53:25
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7月29日未明(7月11日)後白河天皇方は、源義朝が200騎を率いて弟・為朝が固める西の門へ、平清盛は叔父・忠正が護る東の門へ襲い掛かりました。 世にいう「保元の乱」です。 為朝は奮戦しますが、兵力の差は埋められず僅か2.3時間で決着がつき後白河天皇方が勝利します。 pic.twitter.com/FfhsJ1G8dH

2023-11-16 02:54:57
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頼長は逃走中に流れ矢にあたり、その傷がもとで亡くなりました。享年37。 京都府京都市上京区に在る相国寺には、藤原頼長のものと伝わるお墓が在ります。 pic.twitter.com/oNhfc0l7pH

2023-11-16 02:54:57
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崇徳上皇は源為義らに擁され東山の如意山に一旦逃れますが、投降を決意して剃髪し仁和寺に出頭します。 出頭後は同母弟の覚性法親王に取り成しを願い出ますが覚性はこの申し出を断ったため、後白河天皇方の源重成の監視下に置かれました。 pic.twitter.com/7wWszmQhO6

2023-11-24 02:40:59
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投降した背景には、810年(弘仁元年)に起きた平城太上天皇の変(薬子の変)で失脚した平城上皇が自ら選んだ隠棲地で厚遇され余生を送った先例がありました。 しかし、この時代は上皇が在家出家を問わず院政を行う慣例があった為、崇徳上皇の権力放棄の保証にならなかったのです。

2023-11-24 03:02:37
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また万一、守仁親王(二条天皇)が薨じた場合は中継ぎとして即位した後白河天皇の脆弱な立場の根底が崩れ、家長として崇徳上皇が院政を行う可能性を排除出来ませんでした。 pic.twitter.com/Y4KJrInCx4

2023-11-24 03:02:38
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1156年8月10日(保元元年7月23日)崇徳上皇は武士数十人が囲んだ網代車に乗せられ、鳥羽から船で讃岐(現:香川県)へと配流されます。 天皇もしくは上皇の配流は、藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇の淡路国配流以来、およそ400年ぶりの出来事でした。 pic.twitter.com/3Q63vyfdbn

2023-11-24 03:02:38
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松山の津 (香川県坂出市高屋町1500) 香川県坂出市には「松山の津」と呼ばれる史跡が在ります。保元の乱に敗れた崇徳上皇は讃岐の地に配流され、最初にこの松山の津に着いたそうです。 松山の津の場所は漠然とした事しか分かっていませんが「津」には港という意味があります。 pic.twitter.com/CnSCkLe8Pe

2023-11-24 03:02:39
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平安時代はこの辺りは海だったそうで、当時の坂出地域の玄関口となる場所でした。 この松山の津は府中の国府に通じる重要な場所だったと考えられています。

2023-11-24 03:02:40
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雲井御所 (香川県坂出市林田町770) 崇徳上皇が讃岐に入った松山の津から南に約2.5km歩くと雲井御所跡が在ります。 当時、讃岐国司庁の首席官人で豪族だった野太夫綾高遠の館の隣に「雲井の仮御所」を急造し、崇徳上皇はここで約3年間を過ごしました。 pic.twitter.com/nVswoC7vxc

2023-12-12 02:49:34
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崇徳上皇は都を懐かしく思い、 「ここもまた あらぬ雲井となりにけり   空ゆく月の 影にまかせて」 と歌を詠みました。詠まれた歌からここを雲井御所と名付けこの地は雲井の里と呼ばれたそうです。 pic.twitter.com/KSx19pFaGH

2023-12-12 02:49:34
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