キリスト教徒にとっての「救い」の「浅い」理解と「深い」理解の違い

キリスト教の中心テーマの一つである「救い」とは何を意味するのかについて、言語化してみた。キリスト教徒向けのお話。
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Hokuto Ide @Hokuto_Ide

「イエス・キリストを個人的な救い主として受け入れる」という言い回しがある。"Accept Jesus Christ as your personal Savior"の直訳だろう。 "personal"を「個人的な」と訳すと個人主義が連想されネガティブな感じ。 「自分にとっての」がより良い感じ。他人事だった救いが自分事になるのだから。

2024-02-08 11:24:35
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

「イエス・キリストを自分にとっての救い主として受け入れる」。もちろん全人類にとっての救い主なのだが全人類だけ強調すると自分が全人類に埋もれる。神の子が罪人にすぎない自分と1対1の関係を持って愛される絆の重大さが薄まる。他人事ではなく救いは自分事。自分事として受け入れる時、救われる。

2024-02-08 11:24:35
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救いは壊れた神との関係の回復。神に敵対した自分。自分と神の関係をイエス・キリストが十字架で死に、復活し、とりもってくださった。これもやはり自分と神の関係。自分とイエスとの関係。1対1の深い心の関係が重要だ。全人類などという大きすぎて漠然とした話ではない。自分の人生の重大な出来事だ。

2024-02-08 11:24:35
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

「イエス・キリストは全人類の救い主」という言葉は正しい。しかし伝える相手がまだ救われてないなら他人事だろう。まずは「イエス・キリストはあなたの救い主」という言葉が先に伝わって、自分事として受け入れられ、その人自身がまず救われる必要がある。救われた後同じ言葉を聞くと別の意味を持つ。

2024-02-08 11:24:36
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

救われた後の人、イエス・キリストと自分の愛の関係の中で、神と自分の愛の関係の中で、日々の日常生活を送る人。神が自分にとっての天の父になった人。神を愛する人。神をイエスを愛する人なら、愛する天の父が何を願いどんな仕事をしているか、関心を持つようになり知りたくなるのではないだろうか。

2024-02-08 11:24:36
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

「イエス・キリストは全人類の救い主」という言葉は神が何を願いどんな仕事をしているのか。知りたい人にとっての答えだ。神は全ての人の救いを願っておられる。神は全ての人がイエス・キリストの名を知り、その十字架と復活を受け入れ、神に立ち返り、壊れた神との関係を回復するのを願っておられる。

2024-02-08 11:24:37
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神は全ての人を救うため、眠らずに昼も夜もこの世界に介入し働き続けておられる。神は、その口から出る一つ一つの言葉を通して、イエス・キリストの良い知らせ、福音を伝える者を励まし、奮い立たせ、外に出て、人と出会い、信頼関係を作り、その人の口を通して神の言葉を伝える勇気を与えておられる。

2024-02-08 11:24:37
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

「神を求める人」と「神の言葉を、イエス・キリストの福音を伝える人」が出会う機会を、環境を、きっかけを、神は全知全能の力と知恵とをもって周到に準備し、創って、人に与えておられる。そのような機会・環境・きっかけをくださいと願い祈る人の祈りに耳を傾け、ベストなタイミングを計画される。

2024-02-08 11:24:38
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

救いはゴールではない。「救われた。天国行きの切符が手に入った。やったね。得した。はい。人生勝ち逃げ。死んでも安心。あとは何もしなくていいね。」でも良いし別にそれは悪いことではない。もちろん天国には行けるだろう。否定はしない。だが救いはそんな軽いものより大きいとも思う。それ以上だ。

2024-02-08 11:24:38
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

救いはスタートだ。何のスタートなのか。敵だった神と自分は関係がなかった。むしろ敵対関係だった。しかし、イエス・キリストのお陰で、神が天の父になっった。イエスが恩人になった。神との関係のスタートだ。イエスとの関係のスタートだ。神と、イエスと、関わりあって生きていく人生のスタートだ。

2024-02-08 11:24:38
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

どんな人間関係でもそうだが、関わり合って生きていく相手ができたら、その相手が何を願い何をしているか、知りたくはないだろうか。無関心でいられるだろうか。無関心・無感動だとしたら果たしてそれを関係と言えるだろうか。関係がスタートしたというのに。自分は本当に神とイエスと関係があるのか。

2024-02-08 11:24:39
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

「イエス・キリストは全人類の救い主」という言葉は、神とイエスとの関係を他の何よりも最も大事にする人にとっては「自分と最も関係のある話」になる。「神の最大の関心事」が「自分の最大の関心事」になるからだ。なぜなら神と自分との関係が自分にとって最も重要な関係だからだ。神を愛するからだ。

2024-02-08 11:24:39
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

神は救われた人を強制的に伝道に駆り出したりしない。望んでもいない人にわざわざ伝道に出て行ってほしいなどとも願われないと、自分は思う。むしろ、神は自分を差し出す人が出てくるのを忍耐強く待っておられる。このような自分でもよかったら用いてくださいと心の底から願う人を神は用いてくださる。

2024-02-08 11:24:39
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

嫌々ながら、義務感で、人に言われて、自分の意思でもないのに、伝道や奉仕や礼拝をする人の捧げる心を、神が喜ばれるのだろうか。それが神との愛の関係だと呼べるだろうか。むしろ神にとっても嫌なものになるのではないだろうか。そんなもの願い下げだろう。いらないだろうし何もしないほうがましだ。

2024-02-08 11:24:40
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

むしろ熱いか冷たいかであってほしいと、イエスは願われる。生ぬるいものは吐き出したくなると。「はい」は「はい」「いいえ」は「いいえ」とはっきりすることを願われる。自分の意思で選択し決断してこそ関係は本当に関係として成立する。愛は形式や言葉や感情ではない。愛は覚悟と意思決定と行動だ。

2024-02-08 11:24:40
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

牛は二頭で軛を引く。イエスが片方を担いでいる。イエスを愛してやまない人は隣で軛を背負うことができる喜びで軽く感じるだろう。イエスに関心もなく、イエスとの関係も大して大事じゃない人に無理やり軛を負わせてはならない。自分から無理して負ってもいけない。重いだけだから。誰も喜ばないから。

2024-02-08 11:24:41
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

自分の十字架は他人に無理やり負わさせるものではない。イエスを愛するがゆえに自分から進んで負うものだ。イエスを愛するように見せかける姿を無理やり演技して教会の人達に見せるために負うものではない。そんな生ぬるい覚悟で負えるものでもない。後で重大な問題が起きて愛のなさが露見するだけだ。

2024-02-08 11:24:41
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

愛が自分の中にないならどうしたら良いだろうか。人間を放置して愛が自然に湧き上がって来るようなことは決してない。愛は外から与えられてはじめて手に入る。それは聖書を通して自分に与えられる神の愛の言葉であったり、神が他の人の行為や言葉を通して自分に与えられる間接的な神の愛だったりする。

2024-02-08 11:24:41
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

力がないとき、関心を持てない時、気力が衰えた時、とりあえず今やってることを止めて休むと良い。休む中で聖書を読んだり祈ったり祈ってもらったり他の人に助けてもらうことができればなお良い。愛をたくさん受け取れるよう心に空の器をたくさん用意したい。まずは自分が愛に満たされ喜ぶ必要がある。

2024-02-08 11:24:42
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

「イエス・キリストは全人類の救い主」という言葉が重たく感じられたら要注意だ。別に自分じゃなくても神様はその辺の石を用いて全人類を救うことだってできる。自分を通してじゃないと他人を救えないなどということはまったくない。でも神に愛され、神を愛したくて自分を差し出すなら用いてくださる。

2024-02-08 11:24:42
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

まずは「イエス・キリストは自分にとっての救い主」だという事実に戻ろう。イエスの愛に思いを馳せよう。聖書を通して神が自分に語る言葉を受け取ろう。祈りを通して自分の心を、喜びも悲しみも神に知ってもらおう。救われてスタートした自分と神との関係を大事にしよう。いつも喜んでいれますように。

2024-02-08 11:24:42