3/2~3 山形・米沢・仙台・石巻…コレクション展「戦国武将、手紙を書く」・石巻和渕武田家関連史跡探訪を中心に

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日光81 @nikko81_fsi

「伊達世臣家譜」では確認できず、これではない「伊達藩作成の家譜」にあるらしいこととしては、天正2年に、信虎死後に奥州会津へ下向という記載があるらしい。ソースが確認できないので何ともだが、武田信友のような、在京時代に儲けた子がいたのかな…全く判らん。 koskan.nobody.jp/takeda.html#no… twitter.com/nikko81_fsi/st…

2024-03-05 16:59:26
日光81 @nikko81_fsi

牛タン食べて、図書館にて「伊達世臣家譜」を確認する昼下がり。 pic.twitter.com/MRbfmdiD3W x.com/nikko81_fsi/st…

2024-03-05 12:34:39
日光81 @nikko81_fsi

これ、元の新聞記事追えないかねえ…もとのWebはCloseされてしまって転載で申し訳ないのだけど、どの新聞のいつの号の記事なのかが判らないから、この新聞記事で語られていることがわからない。どうやら天皇陛下(明治?大正?昭和?)もご覧になったらしい。 twitter.com/nikko81_fsi/st…

2024-03-05 17:01:36
日光81 @nikko81_fsi

延宝5(1676)年、伊達忠宗(義山公)が、信玄所用甲冑を所持する旨を聞きつけ、江戸に持っていったらしい。なんでも裏側に三社(伊勢・八幡・春日)神号と久寿2(1155)年正月製造の銘があったという。たぶん、この兜のことだろうが、すでにこれが後年諏方法性に化けておるな… pic.twitter.com/apJzojw6w7

2024-03-05 16:51:04
日光81 @nikko81_fsi

(ゆるぼ)『伊達世臣家譜』以外に、近世伊達家中諸氏について記録された史料があればおせーてください。『伊達世臣家譜』には続編はあるようなんですけどね。『仙台藩家臣録』だと武田五郎左衛門の事績(既知)はあるけど、出自に関わる記述はないんだよなあ。

2024-03-05 17:13:51
日光81 @nikko81_fsi

江戸に持っていったの、江戸の伊達屋敷で忠宗が見せるために持っていったのか、(その前段に家光[大猶公]云々のことがあるから、将軍上覧に供されたのか、イマイチ読み取れない。 twitter.com/nikko81_fsi/st…

2024-03-05 17:16:08
日光81 @nikko81_fsi

仙台藩家臣録は、デジタル化されててすごいよね。

2024-03-05 17:17:08
日光81 @nikko81_fsi

ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99… やっぱりだいたい 『伊達世臣家譜』 『伊達世臣家譜続編』 『御知行被下置御帳』 (『仙台藩家臣録』『元禄補遺仙台藩家臣録』) を参照するんだなあ twitter.com/nikko81_fsi/st…

2024-03-05 17:19:22
日光81 @nikko81_fsi

奉加帳と墓碑の確認と系譜関係を整理。『伊達世臣家譜』成立時点の1792年までの、信玄公百回忌、百五十回忌、二百回忌掲載の人物は時期と墓碑の名前が合致しました。 x.com/nikko81_fsi/st…

2024-03-14 12:39:25
日光81 @nikko81_fsi

昨日。石巻の企画展の前に、伊達政宗に拾われた武田氏の菩提寺・耕徳院で、震災で倒れた墓碑がもとに戻された様を確認してきました。信玄公百回忌奉加帳(1672年)にある武田五郎左衛門は特定してますが、百五十回忌、二百回忌、二百五十回忌の奉加帳との対照ができます。 pic.twitter.com/NyA6Y4TOoT

2024-03-04 21:12:37
日光81 @nikko81_fsi

百回忌では、武田五郎左衛門充信が銀三枚。和渕に所領を与えられた当時の当主。同時に寄付している三五郎はやはり判らないが、百五十・二百の例から考えると弟など傍系の可能性。彦次郎から数えて四代目。

2024-03-14 12:43:20
日光81 @nikko81_fsi

百五十回忌(享保7,1722年)では、充信の子左太郎が銀三枚、佐々之丞が銀一枚。墓碑に左太郎は信盛といい、佐々之丞は信行という諱で、左太郎が兄で佐々之丞が弟。左太郎が早世後、佐々之丞が継ぐ。享保8年に伊達吉村から小袖を拝領した際は佐々之丞の代なので、左太郎は百五十回忌後間もなく死去か。

2024-03-14 12:50:00
日光81 @nikko81_fsi

佐々之丞信行も享保十(1725)年には死去、左太郎信盛の遺児杢之助武信が継承、その子の五郎左衛門信義が署名が安之助といい、二百回忌(明和9,1772)で安之助の名で出てくる。前回、前々回と違い、金三両を寄付。銀一枚の寄付の小五郎も墓碑から信氏という諱が判明。これまでの例から信義弟か?

2024-03-14 12:53:42
日光81 @nikko81_fsi

伊達世臣家譜成立以降の二百五十回忌(文政5, 1822)年は墓碑に頼るほかないのだが、金百疋を寄付している武田太郎が墓碑から確認できず。また家譜がないので系譜関係も不明だが、時期としては久馬常徳(文政10,1827年没)が該当する。初名が太郎だったのか、別人か。

2024-03-14 12:58:34
日光81 @nikko81_fsi

ということで、百回忌だけではなく、継続的に恵林寺の求めに応じていることが確認できた。二百五十回忌はまた追って確認だな。百五十回忌奉加帳は、所縁がないけど信玄武徳に感じ入り寄付した人という欄とは別に記載があるので、信玄に連なる武田一族という認識は恵林寺側からもされていたのだろう。

2024-03-14 13:02:41
日光81 @nikko81_fsi

やっぱり意味不明なのは、初代・二代…と伊達政宗に仕官するまでのあたり。初代の信次は碑文によれば1527年生まれ、二代の重次は1569年生まれとなってしまう。信次が信虎十男…ではないにせよ、信虎との所縁を考えると、やはり在京時代の信虎にヒントがありそうな気はする。

2024-03-14 13:05:19
日光81 @nikko81_fsi

直接この武田氏には関係ないけど、二百五十回忌の奉加帳、武田太郎の隣に、会津藩の内藤介右衛門がいてびっくりした。「八重の桜」にも出てきた人だけど、内藤昌秀の養子、内藤昌月につながる家です。 x.com/nikko81_fsi/st…

2024-03-14 13:07:15
日光81 @nikko81_fsi

さらには、百五十回忌奉加帳に信州佐久郡穴原の内藤源太左衛門をみつけた。ここの内藤氏ですね。確かここの内藤氏、由緒書によれば、幕府に許可出して信州から甲州に出てきて、法要参加してんじゃなかったかな。あと高家の武田氏から、由緒を尋ねられて返答を出してたはず。 x.com/nikko81_fsi/st…

2024-03-14 13:14:52
日光81 @nikko81_fsi

そして佐久穂(旧八千穂村)の穴原、内藤昌月の子息のうち、帰農し穴原を開拓したという内藤一族の墓所へ。開拓した内藤昌時夫妻の墓。代々「昌」の字が継承されてる感。善龍寺とは箕輪の善龍寺だろう。以前、長篠で手に入れた内藤昌秀の末裔にかかわる本を読んで気になっていたのだ。 pic.twitter.com/3gJfCq8xvS

2020-11-09 00:12:04
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