芦田先生( @jai_an )2012/1/3の連続ツイート
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人間があることをしたということが言えるためには、その行為の時間(行為の終末)を追い越さなくてはならない(コーヒーを飲むことが完了した後も生きていなければならない)が、死後の時間を生きるわけにはいかないからである。
2012-01-03 00:47:24死後の世界を語る人間は、死んだ人間ではなくて、死にそこなった人間、つまり生きている人間であって、彼はまだ死んではいない。つまり死は、世界「の中に」存在しない。
2012-01-03 00:48:04おそらく、どんなに個性的なことであっても、それと同じ個性を持つ他人は存在しうるだろう。つまり、その個性は代理され得るだろう。しかし死ぬことだけは、私の死であり得る。
2012-01-03 00:50:26逆に、人間が「個性」だとか、「私」「自分」というものを持ち得るのは、死が、代理のきかない、他人に譲れない死であること、死が私の死であることからきている。
2012-01-03 00:51:02つまり、私の〈根拠〉としての私の死は、私にとって常に「非力な(ニヒティッヒ)」根拠、「有限な(エントリッヒ)」根拠でしかない(S.283f.)。
2012-01-03 00:51:56私は私の死であるが、しかし私は(ヴィトゲンシュタインが「人は死を体験しない」といった意味で)死ねない。とすれば、私は私ではない。私とは私の他者である。
2012-01-03 00:52:29世界「の中で」一番遠いところ、どんな他者よりも遠いところに私にとっての私が存在している。というより、世界という距離は、私が私にとって自明でないこと(私=死)から生じる距離なのである。
2012-01-03 00:53:00なるほど、〈世界〉は「私の世界」ではない。世界は彼(彼女)にとっても世界であるからこそ世界であると言える。私が「その中にいる」世界は、私が「いない」世界(私の死)と同じものなのである。
2012-01-03 00:53:56しかし私がいない世界を私が考えることができること、それは結局、私(私=死)というものが、もとから私(私=死)としては不可能であること、「不可能なものの可能性」(ハイデガー)であることの意味である。
2012-01-03 00:54:17レヴィナスは、ハイデガーの「死への存在」をレヴィナスの言う「死ねないことの恐怖」(イリヤ)に対立させているが、それはハイデガーにとって同じことを意味している。
2012-01-03 00:55:02私がその中にいる世界と私のいない世界とが同じものであること、つまり、私の〈外部〉が存在すること ― 世界の外部というものが考えられない以上、世界とは「外部」(ヴィトゲンシュタイン)である ― は、私が私の死としては私の死を死ねないこと、私が私として私の外部であることからきている。
2012-01-03 00:55:22厳密に言えば、“その中で”出来事が生じる外部そのものという意味では世界に境界などないのだから、私の死は境界そのもの、世界そのものなのである。
2012-01-03 00:56:08人間が、たとえば、死に驚いたり、死を無視したりすることができる、そして事件に驚いたり、事件を無視したりすることができるのは、いつも人間が世界の(という)境界、出来事の外部に身をおいているからである。
2012-01-03 00:57:39