芦田先生( @jai_an )2012/1/3の連続ツイート

コンピュータは死ねない ― 「フレーム問題と世界」(1996年) http://ow.ly/8fFon より抜粋ツイート、〈死〉と〈私〉と〈世界〉の距離について。
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芦田宏直 @jai_an

人間は死を知らなくても死ぬことができるし、死を知っているからと言って、死を避けることができるわけではない。

2012-01-03 00:46:50
芦田宏直 @jai_an

また自殺をしたからといって、それは人がコーヒーを飲んだというふうに、或ることの行為者になるわけではない。

2012-01-03 00:47:07
芦田宏直 @jai_an

人間があることをしたということが言えるためには、その行為の時間(行為の終末)を追い越さなくてはならない(コーヒーを飲むことが完了した後も生きていなければならない)が、死後の時間を生きるわけにはいかないからである。

2012-01-03 00:47:24
芦田宏直 @jai_an

それは“生きる”という語の乱用にすぎない。

2012-01-03 00:47:45
芦田宏直 @jai_an

死後の世界を語る人間は、死んだ人間ではなくて、死にそこなった人間、つまり生きている人間であって、彼はまだ死んではいない。つまり死は、世界「の中に」存在しない。

2012-01-03 00:48:04
芦田宏直 @jai_an

「死は生の出来事ではない。人は死を体験しない」(ヴィトゲンシュタイン)。

2012-01-03 00:48:23
芦田宏直 @jai_an

つまり、人間は自分の力で死ぬことができない。

2012-01-03 00:48:41
芦田宏直 @jai_an

しかし自分の力で死ぬことができないにもかかわらず、死は自分の死でしかない。

2012-01-03 00:49:21
芦田宏直 @jai_an

他人が死ぬことによって、自分の死が代理される(自分の死を免れる)わけではないからだ。

2012-01-03 00:49:48
芦田宏直 @jai_an

おそらく、どんなに個性的なことであっても、それと同じ個性を持つ他人は存在しうるだろう。つまり、その個性は代理され得るだろう。しかし死ぬことだけは、私の死であり得る。

2012-01-03 00:50:26
芦田宏直 @jai_an

私は「一人で」死んでいくのである。

2012-01-03 00:50:41
芦田宏直 @jai_an

逆に、人間が「個性」だとか、「私」「自分」というものを持ち得るのは、死が、代理のきかない、他人に譲れない死であること、死が私の死であることからきている。

2012-01-03 00:51:02
芦田宏直 @jai_an

〈私)が存在することと〈死〉が存在することとは同じことである。

2012-01-03 00:51:18
芦田宏直 @jai_an

しかし、そのもっとも私的なことこそが、私にとって不可能なことなのである。

2012-01-03 00:51:36
芦田宏直 @jai_an

つまり、私の〈根拠〉としての私の死は、私にとって常に「非力な(ニヒティッヒ)」根拠、「有限な(エントリッヒ)」根拠でしかない(S.283f.)。

2012-01-03 00:51:56
芦田宏直 @jai_an

私は私の死であるが、しかし私は(ヴィトゲンシュタインが「人は死を体験しない」といった意味で)死ねない。とすれば、私は私ではない。私とは私の他者である。

2012-01-03 00:52:29
芦田宏直 @jai_an

世界「の中で」一番遠いところ、どんな他者よりも遠いところに私にとっての私が存在している。というより、世界という距離は、私が私にとって自明でないこと(私=死)から生じる距離なのである。

2012-01-03 00:53:00
芦田宏直 @jai_an

この距離があらゆる諸々の他者へと私が眼差しを向けることの根拠(「非力な根拠」)である。

2012-01-03 00:53:31
芦田宏直 @jai_an

なるほど、〈世界〉は「私の世界」ではない。世界は彼(彼女)にとっても世界であるからこそ世界であると言える。私が「その中にいる」世界は、私が「いない」世界(私の死)と同じものなのである。

2012-01-03 00:53:56
芦田宏直 @jai_an

しかし私がいない世界を私が考えることができること、それは結局、私(私=死)というものが、もとから私(私=死)としては不可能であること、「不可能なものの可能性」(ハイデガー)であることの意味である。

2012-01-03 00:54:17
芦田宏直 @jai_an

レヴィナスは、ハイデガーの「死への存在」をレヴィナスの言う「死ねないことの恐怖」(イリヤ)に対立させているが、それはハイデガーにとって同じことを意味している。

2012-01-03 00:55:02
芦田宏直 @jai_an

私がその中にいる世界と私のいない世界とが同じものであること、つまり、私の〈外部〉が存在すること ― 世界の外部というものが考えられない以上、世界とは「外部」(ヴィトゲンシュタイン)である ― は、私が私の死としては私の死を死ねないこと、私が私として私の外部であることからきている。

2012-01-03 00:55:22
芦田宏直 @jai_an

私の死が世界の中で起こる「出来事」でないのは、そのためである。私の死は、世界の境界で生じる。

2012-01-03 00:55:49
芦田宏直 @jai_an

厳密に言えば、“その中で”出来事が生じる外部そのものという意味では世界に境界などないのだから、私の死は境界そのもの、世界そのものなのである。

2012-01-03 00:56:08
芦田宏直 @jai_an

人間が、たとえば、死に驚いたり、死を無視したりすることができる、そして事件に驚いたり、事件を無視したりすることができるのは、いつも人間が世界の(という)境界、出来事の外部に身をおいているからである。

2012-01-03 00:57:39