陳騫と征蜀将軍

陳騫伝を読んで思いついたこと。 陳騫が持節行征蜀将軍となったのはいつの事か、そしてそれはどういう意味を持つのか?
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Jominian @Jominian

いや、別に良いのか。その後の陳騫の位置と、征蜀将軍として西へ派遣された意味が同一である必要はない。変わらないのは、この時に諸軍を督する適性があるとみなされた、という事だ。そして、この前後以降、陳騫は司馬昭に信頼されている事が窺えるという事

2012-01-05 00:49:32
Jominian @Jominian

或いは、秘策はやはり司馬昭の発案で、それを正しく理解し実行できる人物として陳騫が選ばれた、という事なのかもしれない。これだと、陳騫はもっと早期に司馬昭の信頼を勝ち得ていた事になる。考え得る時期としては相国司馬時代か。最も、この「相国」は他の記述と整合性が取れない

2012-01-05 00:54:15
お菓子っ子 @sweets_street

@Jominian 陳騫は「無難に勤めること自体が功績である人」なので、征蜀将軍の時も援軍として現地に赴き、あとは定められた手はず通りに動いて堅実に任務を果たしたのが功績とされて、「信頼に値する」と評価されたのではと思います

2012-01-05 00:56:17
Jominian @Jominian

司馬氏で相国となったのは司馬昭だけだ。当時の権力者たる司馬師も相国ではない。ゆえに、これを司馬昭とするなら、時期を考えると安東将軍か、行征西将軍の頃であろう。

2012-01-05 00:58:17
Jominian @Jominian

@sweets_street それだと持節とした事に不自然さが残ります。単なる援軍なら仮節の陳泰よりも上の持節として派遣する必要はないのでは?

2012-01-05 00:59:34
Jominian @Jominian

陳騫についてのまとめは、樹機能や馬隆以上に注目されないまとめになるだろう

2012-01-05 01:06:41
お菓子っ子 @sweets_street

@Jominian とにかく兵を増派して固めて隙を見せないことが優先された状況だったのかもしれないと思いました。動かず固めることを徹底するための持節。中央の意思を通して雍州諸軍を抑えることを期待されたのではないかと

2012-01-05 01:08:37
Jominian @Jominian

@sweets_street 五丈原における辛毗と同様の意味である、という事ですか?

2012-01-05 01:11:30
Jominian @Jominian

もっと陳騫の話に参加して欲しいのだぜ。

2012-01-05 01:12:58
Jominian @Jominian

実は、陳騫の征蜀将軍任命話をしたかったのは、「姜維さん、王経だけじゃなく討蜀護軍も破ってたんっすね。マジぱねぇっす!」って言いたかっただけだったりする。

2012-01-05 01:14:30
お菓子っ子 @sweets_street

@Jominian そうですね。この時の雍州諸軍は血気にはやっているか、あるいは動揺が激しくて、統率を失いかけていたのではないかと。陳騫はそれを引き締めて戦線を立て直す任を帯びたとすればいかがでしょう?

2012-01-05 01:14:34
Jominian @Jominian

@sweets_street この時、連年の敗北な上、王経の軍は壊滅してますからね。加えて、討蜀護軍も戦死したとなれば、陳泰で抑え切れるものではないと判断しても不思議ではないですね。そして、陳泰伝での司馬昭のべた褒めに繋がると

2012-01-05 01:17:24
Jominian @Jominian

そうすると、陳騫が評価されたのはいつか、という問題に立ち返らねばなるまい。だが、明日も仕事なので、それはまた今度にしよう。

2012-01-05 01:18:54
Jominian @Jominian

こうして長々と語った内容は「蜀賊寇隴右、以尚書持節行征蜀将軍、破賊而還」という短い文章についてなわけですよ。短い文章から多くの事を考えるのは楽しいですね

2012-01-05 01:22:07
お菓子っ子 @sweets_street

@Jominian 太守を歴任して管理能力を示し、さらに度量の大きさを評価されていた彼は、敗軍の立て直しにはうってつけの人材だったでしょう。そして、期待通り統率を取り戻したことを評価され、統率力ありとして都督に起用されたとしたらつながります

2012-01-05 01:25:40