陳騫が戦争の表舞台に上がるようになったのは、征蜀将軍として隴右に派遣された時だ。実は、この記述はちょっと面白いかもしれない
2012-01-04 23:07:34征蜀護軍と征蜀将軍が同時に任命されている例は、少なくとも史書を読む限り見られない。そして、征蜀護軍は嘉平元年から六年まで、徐質がその任にあった。この頃の姜維対策として中央から援軍が派遣されるのは、この嘉平六年か、翌年の正元二年くらいだ。
2012-01-04 23:12:22嘉平六年の時点では、援軍の派遣と徐質の死の前後関係はいまいち不明だ。また、司馬昭が派遣されている上、陳騫を持節として派遣するだろうか?では、正元二年に鄧艾、胡奮、司馬孚らと共に派遣されたのが、晋書陳騫伝にある持節行征蜀将軍なのだろうか?
2012-01-04 23:16:12嘉平六年の時点では、援軍の派遣と徐質の死の前後関係はいまいち不明だ。また、司馬昭が派遣されている上、陳騫を持節として派遣するだろうか?では、正元二年に鄧艾、胡奮、司馬孚らと共に派遣されたのが、晋書陳騫伝にある持節行征蜀将軍なのだろうか?
2012-01-04 23:16:12だが、正元二年。王経が敗れた年の事であるが、この時は、王経が都督の陳泰に対し、「討蜀護軍を祁山に向わせたい」と語っている。つまり、正元二年の時点では、既に征蜀護軍の後任が居たのである。
2012-01-04 23:23:09考えられる可能性は二つだ。1. 嘉平六年、徐質が死んだ後、改めて陳騫が征蜀将軍として派遣された。 2.正元二年、王経と共に敗れた討蜀護軍が敗死し、援軍第二陣である司馬孚と共に、陳騫が征蜀将軍として派遣された
2012-01-04 23:29:40また、嘉平六年だとしたら、誰の意思で派遣されたのか、という事だ。普通に考えれば大将軍たる司馬師だが、司馬昭を派遣しながら持節行征蜀将軍として陳騫を派遣するのは大いに不自然だろう。
2012-01-04 23:41:43ここから分かる事は、王経は当初討蜀護軍を祁山に向わせるつもりだったが、都督に反対された為に断念し、自らに同行させ共に姜維と戦った、という事だ。陳泰が雍州刺史だった頃からそうだが、征蜀護軍と雍州刺史はセットで運用される事が殆どだ。
2012-01-04 23:47:35陳騫派遣を司馬孚と同時としたのは、鄧艾らを派遣した時点では、王経は敗れていなかったからだ。討蜀護軍の敗死を確認した後とすれば、司馬孚と共に派遣されている。
2012-01-04 23:49:50また、太尉の司馬孚を派遣して後詰としながら、陳騫を持節とした事は、司馬昭にそれを必要とする何らかの考えがあったという事だ。司馬孚の能力か、人間か、何れかを信頼していなかったか。或いは、もっと別の思惑―恐らくこちらが真実だ―があった。
2012-01-04 23:53:10そもそも、陳騫と司馬孚が同時期に派遣されたとしても、二人が同じ目的を以って派遣された事にはならない。征蜀護軍が派遣された例として、秦朗の例がある。これは五丈原である。また、その少し前、諸葛亮が天水に出た際に、衛臻が征蜀将軍として派遣されている。
2012-01-04 23:59:32秦朗は純粋な援軍の色彩が強いが、衛臻は、彼が自ら対諸葛亮の奇策を上奏し、それが認められての結果である。そして衛臻は、節を仮されて長安に向っている。
2012-01-05 00:02:01では、その秘策とは何か?となると、全く記述が無いので見当が付かない。ヒントとしては、郭淮が句安らをなかなか撃ち破れないで居る時、援軍として来た司馬昭は秦嶺に向うという機動を取った。陳騫の任務もそうしたものであったかもしれない。
2012-01-05 00:05:45いずれにせよ。この時以降、陳騫はその軍事の才を司馬昭に認められ、都督を歴任するようになる。やはり、陳騫の方から司馬昭に献策したのだろう。内容が伝わっていないのが惜しいところである。
2012-01-05 00:08:45@Jominian 陳騫伝を読んだ印象では、激戦地に投入されて智勇に依って戦果を挙げることではなくて、軍政を統括して国境を保つことを期待された人のように見えますね
2012-01-05 00:14:36@sweets_street 前線で戦う感じではないですね。本当は、「司馬昭は司馬孚に勝手な事をさせない為に陳騫を派遣したんだよ!!」ってしたかったんですが、不自然だったのでやめました。
2012-01-05 00:22:33@Jominian 人事では成果を出すことを期待されて起用される人と、間違いがないことを期待されて起用される人がいますが、陳騫は後者だったのではないかと思います。西へ派遣されたのも陳騫の能力ではなくて信頼性に期待したような気がします
2012-01-05 00:25:31@sweets_street どういう仕事を期待されていたかは、まだ陳騫について深く洞察していないので分かりませんが、事実としては、この後に都督を歴任したという事があります。そして、征蜀将軍と安東将軍は、共に司馬昭が歴任した職です。司馬昭の、陳騫への期待と信頼の度合いが分かります
2012-01-05 00:30:30@Jominian 伝を読むと、いかにして敵を破ったかとか、いかにして政治を正したかとか言った華々しい功績が記述されてないんですよね。職歴が淡々と記述されて、合間合間に度量が大きくて皆から一目置かれた人間性が書かれています
2012-01-05 00:34:09@sweets_street @Jominian 職歴と人間性への記述がメインであるということは、都督を歴任して特筆に値するような事件も無く、無難に勤め上げた事そのものが自体が陳騫の功績とみなされたのではないかと思います
2012-01-05 00:37:57@sweets_street 具体的な戦功は楊州諸軍事となった時だけですね。胡烈を派遣して陸抗を退かせた事もあるにはありますが。しかし、それだと衛臻の例に準えた征蜀将軍就任の意味に変化が出てしまいます。
2012-01-05 00:40:11