二つの層――昔ながらの謎々と20世紀探偵小説と

推理小説評論家・巽昌章さんと作家・笠井潔さんによる、「後期クイーン的問題」を巡る2月19日のやり取りをまとめました。
12
巽昌章 @kumonoaruji

カーやクリスティーにくらべ、クイーンが本格をめぐる議論で引き合いに出されやすいのは、「本格の核心は論理的な謎解きにある」という共通了解がファンの間にあり、その核心部分を誰よりも追求したのがクイーンだからだろう。こうした理解に異を唱える必要はない。

2012-02-19 12:18:48
巽昌章 @kumonoaruji

しかし、たとえばクリスティー・ファンは、「クイーンほど論理にこだわらなくてもいい。ポアロの推理だってそれなりに論理的だし」と主張していたし、それが間違いだとも言えない。「推理」にはいろいろなスタイルがあってよい。

2012-02-19 12:23:22
巽昌章 @kumonoaruji

カーや横溝正史や高木彬光をみれば、それぞれ「論理的な謎解き」をしているはずなのに、スタイルはクイーンと大きく異なる。もし本格推理小説にとって普遍的な「推理」なるものを論じるとすれば、クイーンだけでなく彼らの「推理」をも参照しなければ話にならない。

2012-02-19 12:27:15
巽昌章 @kumonoaruji

ここまでは私が学生時代に、つまり、新本格の出現前に考えていたことである。もっとも、本格作家にはクリスティーもカーも横溝正史もいて、それぞれに違ったスタイルの推理を展開しているというのは、私が独自に考えたことではない。いわば当時の本格マニアの常識だったはずだ。

2012-02-19 12:32:45
巽昌章 @kumonoaruji

要するに、学生マニアの世界というのは、クイーン・ファンとクリスティー・ファンが、どっちが本格として優れているかを延々と議論しているような場所だったのだ。論理性においてクイーンが秀でているのは異論のないところだったにせよ、それだけで決着はつかない。

2012-02-19 12:38:22
巽昌章 @kumonoaruji

だから、「後期クイーン的」問題に対する私の態度は自然に決まってしまう。本格推理小説は遊びであるとしたうえ、その遊びのお約束によって「後期クイーン的問題」を排除する(見ないことにする)のは十分可能である。

2012-02-19 14:22:11
巽昌章 @kumonoaruji

「偽の手がかり問題」については、事件ごとの個別対応(手がかりの真偽を、別の根拠によって探偵役に判定させる)が可能な部分はそうしたらいいし、真偽判定の根拠⇒真偽判定の根拠の根拠……という無限後退は「お約束」で封じればよい。要するに本格は従来通り存続可能である。

2012-02-19 14:26:32
巽昌章 @kumonoaruji

したがって「後期クイーン的問題」は、本格推理小説の存続を脅かさない。だからといって、この問題が無意味だとは言えない。もともと、われわれは当面必要な事柄だけに心ひかれるわけではないからだ。「後期クイーン的問題」は、不必要だが魅力的だと思う。

2012-02-19 14:30:27
巽昌章 @kumonoaruji

小栗虫太郎は『黒死館』を書いていた時の自分は気が狂っていたという。推理小説は遊びだ、と心得つつ、その遊びの中の無用の一事象に心を引き寄せられ狂気にいたる作家がいれば素敵だ。

2012-02-19 14:35:27
巽昌章 @kumonoaruji

そんな作家はごく少数だとしても、より一般的な問題として論じることもできる。推理小説の「論理」は、あくまで小説のなかにだけ息づく想像力の産物である。だからその「論理」は、憧れや不安や怨念や……無数の心理的要因によって姿を変えてゆく。

2012-02-19 14:38:32
巽昌章 @kumonoaruji

「後期クイーン的問題」とは、そのもっとも極端な事例であり、だからこそ、われわれと推理小説中の「推理」との関係を考えるにあたって示唆的なのである。

2012-02-19 14:39:43
巽昌章 @kumonoaruji

いいかえれば、推理小説の「推理」は、その小説が書かれる場の力学によって規定され、その小説の内部構造との関係で具体的な形を獲得する。そこには論理学の法則ともゲームの理念とも違う様々な要因が混じり込まないわけにはいかないのだ。

2012-02-19 14:44:16
巽昌章 @kumonoaruji

新本格以降、見立てと操りが特権的な意匠となった。私の見方では、「後期クイーン的問題」は、こうした見立て・操りへの志向のなかの一部分である。「後期クイーン的問題」を成り立たせるパーツとして「操り」があるのではなく、それらすべてを含むある潮流が存在したとみるべきだ。

2012-02-19 14:48:58
巽昌章 @kumonoaruji

新本格以降の推理小説を駆動する力の源には、推理によって閉じられる小説というものに対する漠とした不安があった。それがあるときには「後期クイーン的問題」としてあらわれる。この意味では、「後期クイーン的問題」とはその漠とした不安を捕捉するための比喩なのだ。

2012-02-19 14:52:42
笠井潔 @kiyoshikasai

@kumonoaruji たしかに、探偵小説には謎々や頓智話の近代版という面があります。ホームズものが典型だし、今日でも「金田一少年」から『謎解きはディナー』まで、そうした物語を楽しむ読者は多い。しかし論理小説としての本格が、20世紀になって異常に肥大化した事実もありますね。

2012-02-19 15:36:29
笠井潔 @kiyoshikasai

20世紀とは、確固とした現実や唯一の真実が19世紀のようには信じられなくなった時代でした。数学や物理学から芸術や文学まで、あるいは大衆の日常意識までを20世紀的な不安が浸しはじめる。こうした時代に「唯一の真実」を事件の真相として描くことに特化した物語が流行しはじめる。

2012-02-19 15:40:47
笠井潔 @kiyoshikasai

事件の真相の真実性を保証するのが探偵役の推理の論理性です。20世紀探偵小説には、昔からの謎々的な層と、20世紀に固有の物語という層が二重化している。いうまでもなく後期クインー的問題は、後者の層に属する問題です。20世紀探偵小説が滅んでも、21世紀的な謎々の物語は可能かもしれない。

2012-02-19 15:45:15
笠井潔 @kiyoshikasai

その場合は、後期クイーン的問題は技術的処理の対象にすぎないし、その限りでは処理することも可能でしょう。しかし、そうしてしまうと、20世紀探偵小説に固有の禍々しい輝きのようなものは失われてしまう。禍々しい輝きは、無根拠なものを根拠あるように見せかける力業に裏打ちされています。

2012-02-19 15:50:01
笠井潔 @kiyoshikasai

二つの層のうち、どちらに軸足を置くかで探偵小説に対する態度も決まってくるのでしょう。どちらかが「唯一正しい」わけではない。しかし「唯一の正解」がないという点で、探偵小説それ自体が後期クイーン的ではないかという気もします。

2012-02-19 15:57:20
笠井潔 @kiyoshikasai

本格は「遊び」だとしても、作者と読者の人生に関わるほど切実な「遊び」かどうか、ということですね。失われた意味への飢餓、真実への飢餓は20世紀の病ですから、これに関わる20世紀探偵小説は切実な「遊び」です。この辺の感じ方が、ミス研的空間の読者と違うところなのでしょう。

2012-02-19 15:59:39
巽昌章 @kumonoaruji

@kiyoshikasai その通りだと思います。新本格にいたるまでの道のりは確かに無視できないし、そこには娯楽としての一般的な有用性をはみだす過剰性がある。それを昔ながらの謎々と二十世紀小説の二つの層と表現することができるかもしれません。

2012-02-19 18:11:31
巽昌章 @kumonoaruji

@kiyoshikasai しかし、そうした二面性は別々のものとして存在しているのではなく、また、「形式と内容」といった区分に相応するものでもないでしょう。たとえば、謎解きを名探偵の勝利で終わらせる小説とそこに不安を持ち込む小説は途中までは見分けがつかない。

2012-02-19 18:16:20
巽昌章 @kumonoaruji

@kiyoshikasai また、そうした「不安」が先にあって、その表現媒体として推理小説が選択されたとも言いきれない。むしろ、推理小説そのもの、あるいはこれを書き、読むという行為の反復が、そうした「不安」を誘発し、あるいは引きよせ、増幅したも考えられます。

2012-02-19 18:18:50
巽昌章 @kumonoaruji

@kiyoshikasai その一方で、本格推理小説だけがそうした役割を果たし得たとか、本格が必然的にそうした表現を生み出したとは考えていません。必然ではない。しかし、実際に推理小説の世界で起きたことを振り返れば必然のようにも見える。そういうことです。

2012-02-19 18:21:52