近代的自我と共同主観性

近代的自我と共同主観性
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Aa @Aa_stealth

@ishtarist では例えば三島由紀夫の切腹は?と思うわけです。あれは極めて日本的な、「近代的自我」の取り損ない自殺であったような。あと、同じ「死にざるを得ない状況」でも、自殺と他殺はたぶん違って、ナチスのゲーリングは「絞首刑にだけはなるわけにいかない」と、自殺していますよね

2012-03-06 04:02:24
馬の眼🐴 @ishtarist

@Aa_stealth 僕は日本史弱いので、事実認識が間違ってたらごめんなさいですが、三島由紀夫の場合、具体的に、誰かが彼の死を望んでいた訳ではないですよね、たぶん。それは、彼が単に思い悩んで自殺しただけだと思います(笑)。少なくとも社会の犠牲になったと思ってる人はいないかと。

2012-03-06 04:07:12
Aa @Aa_stealth

@ishtarist ええと、ちょっと問題の核が分かっていなかったかもしれませんが(今リツイートした部分への答えのつもりでした)。ゲーリングの死などはまさに、最後の「近代以前の共同主観性に則った死」であるように思うのです。共同体概念が内面化されている人間の死ですね。

2012-03-06 04:05:29
馬の眼🐴 @ishtarist

@Aa_stealth まあ、ゲーリングの場合は、というか、一般論ですが、死なざるをえない状況でも、可能なら死に方を選ぶ権利ぐらいはあるでしょうね。だから、そういう意味での能動性・自発性を否定している訳ではないです。

2012-03-06 04:08:45
馬の眼🐴 @ishtarist

@Aa_stealth ごめんなさい、ゲーリングの死について、あまり詳しく知らないのですが、彼の死が「共同主観性に則った死」であるというのは、具体的に、どういうエピソードに基づいているのか、お手数ですが教えていただけますか?

2012-03-06 04:11:13
Aa @Aa_stealth

@ishtarist ゲーリングは死において、「ドイツ国家元帥を絞首刑に処すことを許すわけにはいかない」と連合国管理委員会あての遺書に遺していたそうです。他の人間(妻)などにも、再三、「銃殺なら異は唱えなかった」と言っていたそうです。

2012-03-06 04:15:44
Aa @Aa_stealth

@ishtarist 問題提起されたい核は、だんだん分かってきました。ただ、対象を「社会弱者」に限定するならそれこそ、理論ではなく現実問題を解決したい運動家としての視点だ、という批判は免れ得ない気がします。社会共同体によって「死ななければならなかった」のは、失脚した支配者も同じ。

2012-03-06 04:25:04
Aa @Aa_stealth

@ishtarist 批判対象が、現代の「寡婦殉死」や「少女割礼」などの事象そのものなのか、それをある種擁護する言論なのかにおいても、たぶん戦い方は変わってきますね。というのは、極めて社会学的な考え方かもしれませんが(笑)。

2012-03-06 04:29:41
馬の眼🐴 @ishtarist

@Aa_stealth もちろんゲーリングの場合は、「死ななければならなかった」訳で、暴力的な状況が背景にあるわけです。(それは疑いなく国家による暴力です。)僕は、「共同主観性」という名のもとに、そうした暴力性が隠蔽され、かつ正当化されることに対して批判をしています。

2012-03-06 04:29:44
馬の眼🐴 @ishtarist

@Aa_stealth 僕の場合、今のところ、明らかに後者ですね。前者になると、もちろん人権という視点から批判は可能だけれど、そういうトップダウン的アプローチは、実際にその状況を変えようとするときには、現実問題として失敗するだろうとは思っています。

2012-03-06 04:31:32
馬の眼🐴 @ishtarist

@Aa_stealth (話しが前後してすみませんが、一つ前のツイートの続きです)、共同主観性や文化という名のもとにおける自己犠牲に関していえば、どの社会においても、圧倒的に、暴力的な背景と権力的な価値観の押しつけが存在する場合だろう、というのが僕の考えなんです。

2012-03-06 04:33:53
Aa @Aa_stealth

@ishtarist 私は文化論が専門なので、その視点から意見を述べますね。これは極めて文化相対主義の問題点を付いた議論なのです。「お互いの文化は尊重しよう」論ですね。でも文化相対主義もまた批判の対象であり、結論として私はこれを乗り越えるのは文化相互浸透しかないと思っています。

2012-03-06 04:34:57
馬の眼🐴 @ishtarist

@Aa_stealth それはほぼ全面的に同意します。

2012-03-06 04:35:57
Aa @Aa_stealth

@ishtarist 「文化は守るべきもの」ではなく「文化は変わっていくもの」という考え方です。まあ、人権というトップダウンではなくても、「それじゃ先進国の仲間入りは出来ないよ」という、札束で顔をひっぱたけば変わらざるを得ない論(おいおい)。見本は明治の日本(笑)。

2012-03-06 04:36:58
馬の眼🐴 @ishtarist

@Aa_stealth そうですね、よくわかります。それは有効な戦略の一つだと思います。他にも適切なアプローチが複数あると思いますが。

2012-03-06 04:38:06
Aa @Aa_stealth

@ishtarist まあでも、理論として突き詰めていくならば、先ほどの三島やゲーリングのような境界例を積み重ねることかな、という意見は変わりません。「昭和天皇は何故生きていられたか」論でもいいです。これは逆に、社会共同体の必要性によって生かされた例ですから。

2012-03-06 04:41:21
馬の眼🐴 @ishtarist

@Aa_stealth 理論的には境界例を積み重ねることは大切ですよね。それと同時に、もっとシステマティックな自己犠牲の方が実践的には重要になってくるでしょうけれど。まあ、三島の場合、客観的に言って、ただ自分の中で思い詰めて自殺しただけじゃないの?と思いますが(笑)

2012-03-06 04:43:30
Aa @Aa_stealth

三島は昭和の人ですが、明治期の日本にはもっと多いんですよ、こういう人。例えば西郷隆盛も、別に彼個人としては死ぬ必要はなかったですよね。他に留学先で自殺したピアニストなど  @ishtarist  客観的に言って、ただ自分の中で思い詰めて自殺しただけじゃないの?と思いますが(笑)

2012-03-06 04:45:30
Aa @Aa_stealth

そのあたりにも苦悩があるのでしょうねと、勝手に察しております。ただフェミニズム自体は極めて近代的な概念です。 RT @ishtarist 別に、批判対象である社会が近代であるか否かとは、特に直接に関係がない話だと思っています。

2012-03-06 04:46:52
Aa @Aa_stealth

@ishtarist 近代以降の価値観で、近代以前から続いている慣習を非難できるか?という問題でもあるでしょう。「現代においては非難できる」というのは一つの回答だと思いますし、それが暴力的と感じるのであれば、「社会を現代にアップグレードするためには必要」という説得も←暴力的。

2012-03-06 04:51:54
馬の眼🐴 @ishtarist

@Aa_stealth それは、結局非難の根拠を、どこに依拠するかという問題だと思います。僕自身は、その根拠を、そこで侵害される他者の主観性あるいは感受性に依拠していますので、近代であろうとなかろうと、非難可能であると考えています。それが、対象社会のマジョリティーに認められて

2012-03-06 04:55:57
馬の眼🐴 @ishtarist

@Aa_stealth いなかったとしても、です。というのは、その場合、その慣習そのものによる被抑圧者や被虐待者が存在する訳ですから。ある慣習を「文化」として容認することは、その文化自体がその再生産構造を担っているところの暴力的社会構造を看過することになるからです。

2012-03-06 04:58:38
馬の眼🐴 @ishtarist

@Aa_stealth まあ、事実問題として言えば、過去の社会制度を「非難」しても、詮ないでしょうけどね(笑)

2012-03-06 04:59:58
馬の眼🐴 @ishtarist

救済に値しない、あるいは救済しようとすること自体が冒涜的であるような自殺、というのは存在するのだろうか。これは相当に難しい問題だ。

2012-03-06 04:47:27
馬の眼🐴 @ishtarist

それと、もう一つ。自殺しようとしている人を、救うことも放置することも暴力である訳だが、その場合、人はどのように振る舞えば良いのだろうか。というさらに本質的な問題がある。

2012-03-06 04:51:40