野中寺銘文(やちゅうじめいぶん)の二倍年暦による解析
(26)前者はどう見ても横線が2本(もし「旧」の意ならむしろ「舊」と彫る)、後者は「もんがまえ」に「タ」で「聞」の異体字ではないかと思う。 http://t.co/29UwTeHc
2012-03-30 17:31:16(27)前者の偏を「さんずい」と見て「シ自」とする解法も提示されているが「さんずい」はムリがありすぎる。後者を「聞」とした場合、後年伝聞や由来書を元に「後彫り」したと見てよいだろう。しかもスペースの都合と秘匿の意図による「ぼかしダイジェスト」だ。
2012-03-30 17:31:49(28)結果的にそれは「わかる人がわかればいい」という暗号であったが、長い年月がそれを本当にわからないものにしてしまった。かつて「天皇」を輩出した輝かしい事績は残したい、しかしおおっぴらに刻字するのは当局の目もあって憚られるというリアルがそこにある。
2012-03-30 17:32:15(29)(とりあえずの)最後に、前者の文字についての考察。旁は「目」か「月」、偏は「|」と見るのがもっとも自然だ。だが我々の「常識」がそれを拒む。曰く「そんな字ねーじゃん!」
2012-03-30 17:32:39(30)「丙寅年四月大旧八日癸卯…」という並びを再び良く見ると、年の表記は問題なし、干支の表記も問題なし、日付表記も問題なし、違和感がありまくるのは月表記だけなことが分かる。「旧」(仮)は「月」に関連しているのではないか。
2012-03-30 17:33:06(31)「四月大」の「大」は「大の月」、すなわち太陽太陰暦において、一ヶ月が30日の月で疑問はない(「小の月」は29日)。通常はここで思考は打ち止め、袋小路のはずだ。だが、ここに二倍年暦というルートがまだ残されている。
2012-03-30 17:33:31(32)実は二倍年暦について考え始めてからずっと引っかかっていたことがある。二倍年暦では「大の月」は15日、「小の月」は14日として考える。この場合月が徐々に太っていく上弦の1日、2日、3日…15日(満月)は分かりやすい。
2012-03-30 17:34:07(33)だが、欠け始める下弦の1日、2日、3日…15日(新月)もある。「1日」と表記しただけではそれが上弦か下弦か区別がつかないではないか?という素朴な疑問である。それが氷解したのだ。
2012-03-30 17:34:34(34)「|」を引いた側が「弦」だ。つまり「丙寅年四月大【|月】八日癸卯…」は上弦、月が太っていくことを意味しているのではないか?(仮説)
2012-03-30 17:35:03(35)この仮説が正しければ、この銘文は二倍年暦が存在したことの証拠となるかも知れない。なぜなら通常年暦が一般的であるなら「丙寅年四月大八日癸卯…」あるいは「大」も省いて「丙寅年四月八日癸卯…」で意味は充分すぎるほど通るからだ。
2012-03-30 17:35:29(36)「丙寅年四月大【|月】八日癸卯…」と鑿を振るわねばならなかったのは、ダイジェストの元になった文書に「そう書いていた」からであろう。さすがに「月」に関しての表記が重複してうざいと思った撰文者が「聞」と逃げを打ったのもリアルだ。
2012-03-30 17:35:52(37)二倍年暦では四月は旧暦3月の下弦15日(14日)にあたる。すなわち「大」の表記だけでは、銘文が準拠する暦が通常か二倍かの区別はつけられない。しかし【|月】を添えることで上弦だと表記すれば、「ははあ」と確実に察しがつく。【|月】表記は必要不可欠だったのだ。
2012-03-30 17:36:43