美と快 および 美の客観性をめぐって ~エビちゃんは美しいが不快?~
@shokou5 たしかに。そういう意味では、誰も美しいって言ってない対象に対しては「美しいけど嫌いだ」って発言はしづらいかもしれませんね。山田花子対して「美しいけど嫌いだ」って言うとき、どういう含意になるのか・・・。ムズイ。
2010-06-14 12:06:56.@conchcame ええとね、わたしそれ、客観性を認めたら、「人間がいなくても美しい」も認めないといけないんじゃないかと思ってるんだよね。@shokou5 @shinimai
2010-06-14 12:10:46@at_akada 僕は「美は人間と対象との間に成り立つ関係的性質のようなもの」と考ているので、「人間がいなくなると美は成り立たない」と考えてます。ダメかな?
2010-06-14 12:15:13ここでも サールに したがい,存在論的主観性と認識論的主観性を区別することが役に たつことと おもわれます.美は対象を認識する主体を必要とする,存在論的に主観的な概念ですが,「ある ひと が A を うつくしいと おもっているかどうか」は客観的に認識可能では. @at_akada
2010-06-14 12:17:36そこから 捨象すれば,たしかに 人間が ほろんだ 世界にも,たとえば,「ルネッサンス期に 美と されたであろう 存在」を 同定することは 可能でしょう.
2010-06-14 12:19:47いまのところ,しっくりくるのはこの立場. RT @shinimai: 快というのはあくまでもモーダルに広がった感覚なので美的なものの認知と折り合わないことは普通にある...人間にたいする評価は美的なものにかぎらず、倫理的、経済的、さまざまなものあるから、嫌だっていろんな意味ある
2010-06-14 12:22:02あ、基本的にわたしがいいたかったのは、 @shokou5 の発言の通りです。http://twitter.com/shokou5/status/16119136925
2010-06-14 12:22:59で、仕事中なので手短かに。x は人間がいない可能世界 w にあるものだとします。美が人間との関係によって決まるとしても、「x は美しい」には 2つの読みがありえます。「x は現実の人間にとって美しい」と「x はw の人間にとって美しい」。
2010-06-14 12:25:02w には人間はいないので後者の読みだと、「x は美しい」は明らかに偽です。しかし、「もし人間がいなくても美しいものはある」と主張している人は、前者の読みを述べているのだと思います。齟齬はその辺にあるのかと。@conchucame
2010-06-14 12:26:12「えびちゃんは美しいけどいらっとする」って言った場合に、「美しい」は「えびちゃんの見た目(のある部分)」についての判断/経験で、「いらっ」は「えびちゃんの高飛車さ」についての判断/経験っていうふうに分けるのは操作的なのかな
2010-06-14 12:32:15文化的に 共有された 美には,客観的に 認識可能な なんらかの 性質が ある,という 意味では 実在論.その レベルでは 美≠快だけれど,その 前段階には 美=快となる 主観的な 美の 段階が あるのでは,でないと 前者の 美の 発生が 説明不能,というのが ぼくの 主張です.
2010-06-14 12:38:36@shokou5 確かに美=快→美≠快の逆順は考えにくいですなぁ.前段階から後段階に至る所要時間が,瞬時〜数世紀の幅があるということはありそうですけれども.
2010-06-14 12:46:15@at_akada 人間が滅んだ世界で「かつて美とされたものを同定する」というケースは、そもそも人間が存在してた世界なのであまり例として適切じゃない気もします。人間が今まで一度も存在してなかった世界にダビデ像的な物体があるとして、そのとき美はあると考えますか?
2010-06-14 12:41:19@shokou5 人間が滅んだ世界で「かつて美だったものx」を同定するという思考実験について質問です。たとえばその同定を行う宇宙人がいたとして、彼ら自身がその対象の美をまったく体験しなかったら、「これはかつて美だった」と判断出来るんでしょうかね?僕は無理だという立場ですが。
2010-06-14 12:51:28@conchucame @shokou5 ヘアの道徳の言語に類似する議論があります。カッコつきの善と、カッコなしの善というのがあって、歴史的に善とされたものと、本質的に善なものは違うという話。
2010-06-14 12:54:45