- sakaki_koheita
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@sakaki_koheita 俺には、その辺りは介入できないことですから言葉にできませんが… 榊原殿も、忠勝殿も俺より大人ですから、その辺りは大丈夫ですよ ね?
2012-04-25 00:24:20@1561_naomasa だいたい普通に話しとるだけでも喧嘩してるのかと言われるようなアレだしなぁ。結局は相手次第だからな。
2012-04-25 00:33:42昨晩、安藤彦四郎と永井伝八郎の名が出たが、説明せずに流してしまったからな。これも簡単に。もう檄文とは直接関係ないが、たぐはこれでいこうか。 #檄文
2012-04-25 22:22:12彦四郎は天文23年生まれで、わしらは帯刀と呼ぶことが多いな。正式には安藤帯刀直次。わしより6つ下で、小姓仲間だった。伝八はそれよりだいぶ下で、永禄6年生まれ。二人の年の差は九歳か。 #檄文
2012-04-25 22:32:40彦四郎は剛胆な男で、幼い頃に川で泳いでいたら、川岸に脱いでおいた服を盗まれそうになったので、一緒にいた弟と二人でその盗人を捕まえたなどという話がのこっとるな。その時九歳だったか。 #檄文
2012-04-25 22:35:19伝八のほうは三河大浜の長田氏の子で、元々太鼓打ちだったのを殿のご長男である三郎信康様が小姓にとりたてられた。その頃の名は万千代と言う。永井というのは、長田氏が源義朝殿を討ち取った一族で縁起が悪いから改名したと聞いたが本当かどうかは知らん。 #檄文
2012-04-25 22:40:18小牧長久手の時は、兵部が預けられた赤備えの初陣でもあった。その兵部の補佐として木俣清三郎がつけられていたが、彦四郎も殿に頼まれて補佐に入っとったんだな。 #檄文
2012-04-25 22:43:30で、仏ケ根の戦いの時、兵部が「将は後ろに居ろって言ってるだろ!」って近藤あたりにどやされながらも前線にすっとんでいったわけだ。隊の指揮そのものは木俣がとったが、この戦いはすぐに大混戦になったので、あちこちで互いの兵が入り乱れとった。 #檄文
2012-04-25 22:48:49彦四郎は兵部を追っていったはずだが、途中で池田殿を見つけ、戦いとなり、これを討ち取った。敵将の首を兵部にとらせようとして「万千代!」と大声で呼ばわったところ、近くにいた伝八…永井万千代が飛んできて、結局伝八が首をとることとなった。 #檄文
2012-04-25 22:53:50その頃兵部は兵部で、黒母衣の武者と組み討ちやっとたらしいな。後で彦四郎に将がそんなことをするもんではないと、がんがんに叱られたらしいがな。 #檄文
2012-04-25 22:55:52あほ RT @1561_naomasa …てへ☆ だって、俺の前にいたんですから。俺の前で俺の邪魔をするものは…
2012-04-25 22:58:44伝八はその後彦四郎と親しくなったようで、義兄弟の契りを交わしたらしい。後に池田輝政殿に、父の首は五千石かと嘆かれたという話だが、それとは関係なくそれなりに出世しよったぞ。 #檄文
2012-04-25 23:02:00後に彦四郎は殿の重臣として幕府の老職もつとめたが、殿のたっての頼みで、紀伊様の附家老となった。なお伝八も附家老にという話があったそうだが、こちらは断っている。 #檄文
2012-04-25 23:04:35伝八は三郎様が亡くなられた後、しばらく蟄居しとったが、殿に呼び戻されて小姓づとめになったんだが、その頃兵部もまだ小姓やっとって、まぁ同僚だな。万千代が二人もいて面倒じゃなかったのかと若干思うが、兵部は殿からは虎松って呼ばれることのほうが多かったかもなぁ。 #檄文
2012-04-25 23:09:27関ヶ原の後、報償に不満があった兵部を伝八が叱りつけて、後に兵部も反省して改めて友情を固くしたとか言う話だが。……まぁわしはちと思うところもあってこの話はそんなに信用しとらんのだが、詳しいことは本人が言うだろ(投げやり) #檄文
2012-04-25 23:17:14