細川頼之と今川貞世の新・三大足利義詮
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頼之「本日は、足利義詮botがいつの間にか、かなり前に500フォロワー達成していた記念と題しまして、日頃の感謝の念をこめたイベントなどを催したいと、まあそういうことで、我々が急遽、その役目を担うこととなりました」
2012-05-05 22:59:28頼之「様々な協議を行った結果、本アカウントの当初の目的である"足利義詮の面白さを広く世間に知らしめる”という理念に立ち返り、今晩は足利義詮がどういう人物なのかを深く掘り下げた企画を行おうということになりました」 貞世「掘り下げるほど中身あるのか」 頼之「さあ」貞世「大丈夫なのか」
2012-05-05 23:00:29頼之「題しまして"新・三大足利義詮”」 貞世「・・・」 頼之「何だ伊予守」 貞世「それ有吉とマツコの怒り新党のあれ?新・三大〇〇?」 頼之「そうだが、それがどうかしたか」
2012-05-05 23:01:39貞世「なんでそれなの?」 頼之「有識者と検討を重ねた結果、こういう企画であれば、義詮ちゃんの面白さをより多くの人に広められるのでは無いかということになったのだ」 貞世「誰、有識者ってだれ?」
2012-05-05 23:02:11頼之「というわけで有識者による選定委員会が選んだ、"新・三大足利義詮”まず一つ目は、北朝正慶2年・南朝元弘3年、西暦1333年5月。鎌倉幕府滅亡時、父・足利尊氏の名代として、若干3歳で陣頭に立った足利義詮です」 貞世「だから有識者って誰だよ」
2012-05-05 23:02:43ナレ「まず、有権者に訴えたいのは!おそらく日本史上最年少での参陣であったということ。そもそもこの参陣の状況が、どういうものであったのか、まずはそこから説明いたしましょう」
2012-05-05 23:04:38ナレ「北朝正慶2年・南朝元弘3年、西暦1333年。世はいわゆる鎌倉時代末期。北条一族専制による執権政治に各方面から不満が噴出。後醍醐天皇を中心とした朝廷の勢力が、討幕を訴え活動を展開するなど、嵐のまっただ中といえる時代だったのです」
2012-05-05 23:05:11ナレ「母は北条一族でも屈指の名門赤橋流の姫、当時の執権赤橋守時の妹でもあった赤橋登子という、ビッグカップルの間に生まれた待望の男児でありました」
2012-05-05 23:07:08ナレ「普通に育っていればそのままセレブな一族の絆になれたかもしれなかった義詮でしたが、倒幕軍を迎え撃つべく上洛した父が、幕府に離反!」
2012-05-05 23:16:04ナレ「しかし、高氏離反の報告を受けた足利家は、その報告が幕府に届く前に、速やかに鎌倉から脱出。ピンチを切り抜けた義詮達は、鎌倉を攻めるべく兵を結集していた討幕軍の新田義貞と合流」
2012-05-05 23:20:30ナレ「当選定委員会は、以上エピソードを、新・三大足利義詮の一つとして認定するものであります!スタジオのお二方、如何でしょう?」
2012-05-05 23:20:58貞世「・・・もう、これ一つで十分だよね」 頼之「あと二つある」 貞世「これでいいじゃん、もう。義詮ちゃんの一番人生で輝いてた瞬間終わったじゃん」 頼之「・・・」
2012-05-05 23:21:15貞世「大体参陣と言っても、三歳児が何をしたってんだ。乳母に抱かれてグズってただけじゃないの?」 頼之「三歳児にそれ以上は、いかに足利家の嫡男とはいえ求められまい」
2012-05-05 23:21:47貞世「そんなことよりさ、これ等持院殿(尊氏)の長子にあたる御子(竹若)が、鎌倉脱出するとき失敗して殺されちゃってるじゃない。そういうの、身につまされない?」 頼之「運が悪かったんだな」
2012-05-05 23:24:39貞世「あと、新田義貞と義詮ちゃんが合流した後、お前の親父さん達兄弟が等持院殿の命で関東に下ってたよね。あれ何してたの」 頼之「色々雑務」
2012-05-05 23:25:00貞世「だから具体的に何やってたんだ」 頼之「俺もあまり知らんのだ。ただ、親父達と何かで揉めて、鎌倉に居られなくなった新田が、上洛していったようだが」 貞世「何それ気になる。何があったんだ」 頼之「禁則事項につきお答えできません」
2012-05-05 23:25:12貞世「つかこれ選んだ有識者、親馬鹿とその遊び友建じゃねえか」 頼之「足利義詮についての有識者です」 貞世「いや、確かにね、今回のテーマには詳しいだろうけどね」 頼之「では次に行きましょう」
2012-05-05 23:25:25