【三国志】第一次北伐(諸葛亮)_付街亭考
@sweets_street 軍を分けたり、内線の位置で各個撃破したりは諸葛亮らしくありません。狭撃は位置取りによっては防げます。もちろん敵の合流は許しますが
2012-05-10 08:12:12@sweets_street 諸葛亮のやり方は、鉄壁の態勢を作り、敵がそこを攻めざるを得ない状況を作る、というものですから、多分、この時も同じですよ
2012-05-10 08:21:13@Jominian そうなんですよね。馬謖に街亭を確保させて後方にいるというのが相当に大胆な決断であるような気がして、ここからどう完璧な態勢を作ろうとしているのかが、僕の思考ではどうにも結びつかなくて(´・ω・`)
2012-05-10 08:23:37@Jominian あの時は郭淮軍を無力化する目的で魏延や呉懿を先遣隊として派遣して、安全を確保してからゆっくりと前進しましたね。この時の魏延や呉懿の役割が、馬謖に期待された役割だったんでしょうか?
2012-05-10 08:39:28第一次北伐での諸葛亮の動きが不自然なのは、西県及び祁山周辺に留まっていたこと。隴右を制圧するにしても、どこかで魏軍と一戦交えるにしても、西県なんていう後方に留まる利点が無い。それこそ、降伏した冀県に入ってしまった方が、地理的にもよっぽどいい
2012-05-10 19:26:38「降伏したばかりで入城が危険だ」なんて言うにしても、そんな理由で後方に留まれば、降伏した諸郡を信頼していない証になるし、再離反を助長する。そんなことよりは、冀県に入って隴右編入の意志をはっきり示した方が良い
2012-05-10 19:30:50西県の利点は麦が豊富なことと、回廊状の地形だから守りやすいことだ。冀県に出れば渭水の線で守ることになるが、上ケイの包囲と洛門の抑えに戦力を取られ、敵主力に当たる戦力は低下する。
2012-05-10 19:40:03@Jominian 撤退する時に「拠る処がないので」とか言う事になる前に、普通そうするのに、なんかモヤっとした感じですよね。
2012-05-10 19:46:50@Jominian だって、みんな、「何故馬謖なんか起用したんだ」ばっかりだもんね。ほんで、街亭もきちんと検証してるかと言うと、一握りしかいない。
2012-05-10 19:59:25@Jominian 街亭の敗因としては、水路を断たれた、ということのようですが、そもそも南山に依らず街亭に立てこもった場合にどういった勝算があるかがよく分からないんですよねえ。オレ未だに分かってない。
2012-05-10 20:13:47@yunishio 街泉亭と南山の位置関係ははっきりしませんが、街泉亭の付近にも山があり、そこから川が街泉亭に注いでたという記述があった気がします。水経注だったかな。城だけでは包囲され押し込まれますし、山だけでもダメかと。両方を利用するのが吉と思います
2012-05-10 20:19:23高いところに登ることで、どれだけ視界が広がるか、登った人なら分かると思う。位置エネルギーの高さより、そっちのが重要な場合が往々にしてある
2012-05-10 20:22:43@Jominian 県城から亭に格下げされるほど、もともと小城ですしね。街亭だけで守りきるのも不可能で、どうしても山上との連携は必要になる。本伝では全軍が山上にいたみたいに書いてるけど、城を丸裸で置いておくはずもないですし、何%かは街亭に残してたでしょうね。
2012-05-10 20:35:57@yunishio 以前どう考えたかは忘れましたが、地形と目的から戦い方を考えることはできると思います。いずれにせよ、山だけでも砦だけでもダメなのは変わらないでしょう
2012-05-10 20:39:43